のぼたん農園の学習会

   




 のぼたん農園では月一回の水牛学習会を、行っている。水牛に関する書物の読書会。水牛を扱う農作業講習。水牛の鼻ひもや農具作り。放牧場の直しなどもある。水牛管理と学習会をかねて行っている。水牛が面白い動物なので、私にはなかなか良い勉強会になっている。

 講師は長年水牛を飼われてきた、元農業高校の畜産の福仲先生。竹富島で水牛車の仕事をされていた島田さん。そして、水牛農法を最後まで行っていた干川さん。そして「のぼたん雄2年11か月」と「さくら雌19歳」5月出産予定の2頭。これ以上はないだろう贅沢な講師陣である。

 のぼたん農園を始めたのは2022年の正月からである。4年目に入っている。水牛のノボタン2022-03-21に生まれた。もうすぐ3歳である。2歳から訓練に入ってもうすぐ1年である。最近大きくなってきて、体重は400キロ近くありそうに見える。農作業を学習しているところだ。先日もサトウキビを植えるための植え付け溝を、鋤を水牛に弾かせて引っ張らせた。

 これがなかなか初めての水牛にも、人間にも難しい作業で困難を極めた。それでも試行錯誤しながら、のぼたんが挑戦をしてくれた。最後には見事に線を引けるようになった。2日目にはまっすぐに深い線を、間違いなく最初から引くことが出来るようになった。ノボタンの学習能力は高い。自慢できる水牛になった。

 田んぼの作業でも水牛に3種類の農具を使う訓練をしている。水牛は作業の違いをだんだんに覚えてゆく。覚えてしまえば真剣に取り組んでくれる。嫌がるようなことはない。ある意味人間と一緒に作業をすることを楽しんでいるような、充実感があるようだ。

 朝8時半に農場に行く。今日の作業は何なのという顔で、放牧場の出入り口で待っている。毎日外でつないでいる。どうもつながれることも作業だと考えているようだ。水牛を繋いで、そばで自生ののぼたんの木を覆っている草を剥ぎ取っていた。

 それを3日ほど見ていたら、水牛のノボタンが手伝うつもりか、木を覆っている草を食べてくれた。やれとも言わないのだが、一生懸命に同じことをやろうとする。見ていて草を取らないといけないということを理解したようなのだ。人間と一緒に働くと考えている。

 しかし草だけならいいが、のぼたんの葉っぱまで食べている。本来水牛はのぼたんの葉は嫌いで食べない。一緒に作業をしなければと考えているので、のぼたんの葉を食べているとしか思えなかった。水牛は人間と一緒に働くのを楽しんでいると思われる。

 こうした水牛の自らやっていることをよく見なければならない。家畜というものの本質を知らないで、繋ぐだけで動物虐待などと言う人に知ってもらいたいことだ。農作業をすることを、水牛は喜びとしているように見える。作業が終わり放牧場に戻るときの自慢げな態度は別物である。

 農業の学び直しをしなければと、のぼたん農園の仲間で時々話していた。高校の農業の教科書を使って、学んで見たらどうだろうかと言う提案をした。雑誌の「現代農業」やYouTubeにでているような、今時のカリスマ農業の話ではなく、自給農業の基本の基本を学ぶ必要を感じている。

 基本なら農業高校の教科書にあるのではないかという話である。どうやって農業高校の教科書を手に入れたらいいのかがよくわからなかった。八重山農林の前に立っていて、教科書売ってくださいとお願いすれば、卒業間近な生徒さんなら安く売ってくれるだろうというような話もあった。

 のぼたん農園の仲間には元八重山農林高校の先生だった方が、2人いる。その人に相談したのだが、もう止めて大分たつので、教科書は処分してしまったと言うことだった。図書室のような所にあって、貸し出しはしていないのかなど聞いたのだが、もう一つはっきりしなかった。

 アマゾンで見ると、何のことはない売られている。作物の教科書がいいだろう。送料を入れて、2510円である。もう少し安い本はないかと思いメルカリを探してみると、あった。あった。ついでに10冊も作物以外の農業教科書をついでに、購入してしまった。いろいろの科目がある。農業機械など何が書いてあるのかいまから興味津々である。

 「学びて時に之を習う亦説ばしからずや 」子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。 「孔子先先が言われるには、学んだことを実践の後にもう一度学び直すことが大切ですよ。しかもそれがなかなか面白いわけよ。」その文章に続いて、友達が来てくれる喜びが出てくる所に実感がある。

 小田原や東京の友人が、はるばる石垣島まで来てくれる。確かに喜びがある。のぼたん農園を案内して、水牛とふれあってもらう。学ぶこと楽しさの次に友の話が出てくるところがいい。成人教育は友人が集まり実践する教育がいい。教養を深めるというようなことよりも、生きてきた道筋を学び直すことに意味があるのではないか。

 これである。いやいや学校でやらされた勉強はもうやりたくないが、農業のあれこれを失敗を重ねて、やってゆく者として、もう一度本で学んでみるというのは、意味が違ってくる。自分の思い込みが改められることになる。農業
には決まった答えを定められる。その目標である。

 学び直しは、明確な目標のある学習である。学校での勉強のつらかったのは、その学ぶ意味が見えなかったからだ。それは今振り返って考えても大半が無駄なこと学びだったと思う。不要な知識を身につけさせられてしまった。知らない方がいい知識もある。人間は本来必要な知識を必要に応じて学ぶほうがいい。

 それは大学入試に必要な知識を学ぶ、などという生きてゆくための無意味な必要ではなく、生活をしてゆく上で、必要不可欠な知識を学ぶことに意味がある。本来学校でもそれは同じで、必要に応じて学ぶべきなのだ。だから、農業高校とか、工業高校とかはまだいいのだろう。

 現代の学校は予備校化している。学校関係者が経営を考えながら考える学校だからだろう。良い小学校に入るための塾まであるらしい。ああくだらない。大学までもが就職予備校化している。人生を金儲けだけに使うような、つまらない拝金主義社会の顛末である。

 のぼたん農園の自給のための学習会を行うことが出来れば、面白いことになる可能性がある。自学自習である。学んで行うである。農耕の面白さの神髄に迫れるかもしれない。知の探求の面白さである。エセ科学をはねのけることが出来る。

 石垣島に来て、小田原の農業が全く通用しない。気候が厳しい。土壌が違う。鳥や動物の密度が10倍も違う。よほど努力しなければ、石垣島での自給農業の農法の確立は出来ない。石垣にすでに伝統的な自給農業が失われているところが残念なところだ。

 挑戦することが難しいから面白さも倍増する。出来るところまでやるつもりだ。学んで行うまた楽しからずや。わずかだが、一年一年学んでいる。これでは出来ないという、実験結果を積み上げている。ダメなことがわかるだけでも一歩前進だと思って、自学自習である。

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