石垣島移住計画

石垣島に暮らして5年になる。石垣島は素晴らしい場所だ。移住は成功した。石垣島に来たことは私の70歳からの人生を、楽しいもの以上の、素晴らしいものにしてくれている。それは石垣島に暮らしている人間が面白いと言うことに尽きる。生身の人間ほど興味深いものはない。
8年ぐらい前になると思うが、移住を考えてあちこち写生旅行をしながら、場所探しをした。歳をとったら暖かいところが良いと言うことは考えていたので、南の方を考えていた。そして、石垣島の田んぼの景色にはまってしまった。田んぼと人の暮らしの関係が面白かった。
江戸時代からの石垣島に暮らす家系の方には滅多にお会いすることが無いので分らないところはある。素晴らしい移住者が沢山居ると言うことは分っている。石垣島は移住者で出来ている島だと言えば、石垣島の古くからの住民の方には怒られるのだろうが。ただの新参者にはそんな印象である。沢山の移住者と友達になれるのだ。
移住者でも古い人は戦後開拓で石垣島に移住した人達だ。現在80歳以上の方達である。もちろん戦前に石垣島に移住した人も沢山居る。台湾から多くの人が移住してきている。1895年、明治28年台湾は日清戦争の講和条約で日本になった。
130年前からの50年間が台湾は日本だった。その50年間の間に台湾と石垣島の往来はかなり深かったのだ。台湾が石垣島にしてみると先進地域で、働きに行く場所だった。台湾から来た人達の集落もあるくらいだ。その人達はもう石垣島人で、移住者とはあまり言えない。
移住者とぎりぎり言えるのは、戦後開拓の移住者からだろう。戦後開拓が何故石垣島で起きたのかと言えば、沖縄の島々の中で、石垣島が未開拓の農地が存在した。戦後には受け入れ余力があったからだ。もちろん水が豊富にあったこと。土壌が何とか畑に出来るものであったこと。
台湾の人は石垣島の土壌を見て、パインが出来ると判断したという。他の島よりも農業の条件が良かったということのようだ。パインの苗を携えて、水牛を連れて移住をしてくれたのだ。それが石垣島の農家が暮らして行けるようになった要因である。私が台湾好きの理由の一つである。
今現在の石垣島には5万人暮らしているが、石垣島は食糧自給率は比較的高い島だろう。沖縄本島は、外地からの引き揚げ者で戦後あふれかえり、多くの人がさらなる海外移住を選ばざるえなかった。満州から引き上げて、今度はブラジル移民をするというような海外移住者も沖縄には多かったのだ。その中でアメリカ占領軍の方針も有った。アメリカ軍が接収した場所から、石垣島を選んだ人も存在した。
多くの沖縄の島々からの移住者が、戦後の石垣島を作ったと言える。パインとサトウキビである。その意味では宮古島は戦後戻ってきた旧島民が、外部に出て行かざるえない、農地が限定されていて、水の足りない島だった。今は地下ダムが有り、5万人を超える人口の島になった。観光とリゾート開発が新しい宮古島を作り出しているのだろう。
島の規模や人口などからだけみると、宮古島と石垣島と似ているようだが、島の人の構成や気質はかなり違う島なのだ。移住者の多い島である石垣島は、石垣合衆国と呼ばれるような、多様な人の暮らす島なのだ。この多様さが石垣島の気風を作り出している。ここが移住者には壁がないと感じる点だ。
この空気を感じて、私は石垣島を移住地に選んだのだと思う。かなり前から、歳をとったら温かいところで暮らそうと言うことは、考えては居た。寒さに弱い体質だったので、歳をとったならば、とても小田原久野では暮らせないと分っていた。久野の家は標高も高く実に寒い家なのだ。冬に行くといつも身体を壊す。
それで東南アジアや台湾移住も考えたこともあったが。しかし、日本語が通じる暖かい場所の方が良いと判断した。言葉が通じないフランス暮らしは辛かった。そうなると沖縄と言うことになる。その点結論は早かった。沖縄に先ずは絵を描きに通った。どこが絵を描きたくなるかである。
田んぼがない沖縄本島は初めからダメだった。田んぼのある西表、与那国、石垣島しか選択の余地がないことがわかった。西表の自然は恐怖心があった。人を受け付けない厳しい天然の自然である。自然に対しての人間の関わりが薄いのだ。こうした風景は絵を描く気持ちになれない。与那国は良かったので大分迷った。だが、急速に田んぼが失われいる状況で、先の見通しが立たなかった。
石垣島の田んぼは素晴らしかった。特に崎枝の「とうまつ田」は何度描いても面白い。絵を描きに通っている内に、石垣島しかないと言うことになっていた。そして、石垣島で家探しをした。これは難航した。借りる家がなかった。購入できる家もなかった。この先30年暮らす事のできる老人向きの家がなかった。
家探しが石垣島に移住する人の等しく苦労するところだろう。移住希望者はいても、家がない。あったとしても家賃が高い。私の場合老人ホームの入居金のつもりで、家を建てざるえなかった。思い通りの家になったので、高額入居金ではあるが、今は家を作ったことに満足している。作ってくれた石垣設計室の照喜名さんが素晴らしい能力の人で、お願いしたとおりの家を作ってくれた。当たり前のようだが、
そういうことはまず無いのだ。
そういうことはまず無いのだ。
若い人の移住は収入の点でかなり厳しいようだ。仕事はそれなりに在るのだが、給与が低い。仕事を掛け持ちしなければ暮らして行けないと言われている。だから社宅が在る仕事を選ぶと言うことらしい。生活費は都会なみで、給与は日本一安いそうだ。変りつつあるらしいが。
その意味では石垣に進出している、大手の企業の店舗だと割合良いという話は聞いた。最近移住された人から聞いたことである。ドンキーかマックスバリューなら良いかもと言われていた。調べたこともないので正しいところまでは分らないが、社員寮があるところが良いと言うことらしい。
私の場合はもう75だから働かなくても、誰にも怒られない。若い頃はこれが辛いところだった。早く隠居の年齢になりたいと憧れたものだ。今でも精一杯働いているつもりだが、人から見れば遊びほうけているように見えるらしい。まあそうだから仕方がない。
病院は十分である。私は緑内障で心配だったが、小田原の眼科よりもはるかに設備も良いし、先生も見識がある。我が家の奥さんも病気があるが、石垣の病院で十分対応できている。学校は先生の性格が良い。若い良い先生がいる。学校に勤めていたので先生を見分けることは出来るつもりだ。子供の居る人はみんなに大切にされる。
そして何より、島には百姓の超人がいる。人間力が半端で無い人が、まだ生き残っているのだ。何でも出来て、自然を見極める感性がすごいのだ。自然人百姓である。その上、自動車などどこまででも直してしまう。島の暮らしのことなら何でも知っている。昔は山梨の藤垈部落にもそういう人が居たのだが、今は居ない。
日本人はみんな石垣島から再出発したら良い。のぼたん農園に来て、自給農業を学べば良い。私の分ることはすべて教える。食べるものは農園で採れる。農園でテントを張って泊まることも可能である。今度インスタントハウスを作るつもりだ。やる気があれば、厳しいとは思うが生きてはいけることは保障する。