水彩画の技法
大野寺の上で描き出したところ。小田原に置いてある画材で描いている。これがとても楽なのだ。移動の際に水彩画の道具を忘れ物がないように持ち運ぶことは、負担である。小田原の筆はすべて隈取筆である。
水彩画はまだ完成されていない描画材料だと考えている。ボタニカルアートで使用されたり、英国風水彩画として薄い着色の技法がある訳だが、絵画表現という意味でのあらゆる表現に自由に対応することが出来るという意味では、ほとんどその技術が開発されていないと感じる。
そうした未開発のままに水彩画の表現という観念が作られてしまった。水彩画は実はあらゆる表現が可能な、材料だという事が充分に探求されない結果になっているように思う。ボディーで描くという事が水彩画ではできないと理解されているが、やろうと思えば普通に可能だと思っている。
水彩画の特徴は水彩絵の具の色彩の美しさである。それは顔料の細かさから産まれる。インクであればさらに細かい染料で出来ているから、描いた時の色の美しさは強い、しかし色の変色が激しいものなので、それを印刷に使うなど材料としては優れているのだが、1年、2年先には違うものになってしまう。
水彩材料は変色がある程度しない材料としては。最も多様な色彩が存在する。一つの色でも水を加える濃度の違いで違う色になる。重色することでの変化などを考えれば、無限と言えるような多様な変化が可能な材料なのだ。
普通は紙に描くのだが、紙自体の変化も実に大きい。多様な変化を持つ水彩絵の具が多様な変化のある素材の上に描かれるのだから、その表現の幅は他の材量に比べて、計り知れないほどの変化がある。そうした多様な表現が可能な材料であるにもかかわらず、現状では一断面が利用されているに過ぎない。
水彩は絵画材料として最も変化のある材料だ。にもかかわらず、現状ではその一面だけが水彩画と言われている。この自由で多様な材料は私絵画を描くうえで実にふさわしい材料だと確信している。どこから始めて、どこにでも変化していく。そうした無計画な描写に対応できる材料なのだ。
自由に何でも可能という利点を生かすことで、自分の中から描きたい何かが浮かび上がつて来るものに、柔軟に変化しながら対応が出来るのだ。しかも、幼稚園児でも利用可能なものだ。しかも、画材を研究する専門家の要望にも十分に対応する。簡単で、即決で、安全で、安価で、単純な材料である。
油彩画を止めたことは間違いでなかったとつくづく思う。油彩画では時間がかかりすぎて、感覚や思考の速度に追いついてくれない。現状油彩画を描いてみようなどまったく思わない。ある時点で待つという事が起こる。乾かしてから薄く重ね塗りしようと考えれば、下の絵の具が乾くまで、少なくとも2,3日は中断になる。
この間に絵の中に起きていた様々な動きが停止してしまう。じっくり待つことで絵の構想が生まれてくるような人には油彩画は向いているのかもしれないが、一日で一枚描くという速度のものには水彩画の描く速度の方が、適合している。
また、初回に現場でに描き終えた絵を、数週間たったものを再度描くことも水彩画では何の問題もない。一度完全に乾かし、再度描き継ぐ感覚に水彩画らしい表現がむしろ存在すると考えている。ある意味紙が泣いてからこそ表現の幅が広がってゆく。
水彩画は調和と破綻なのだと思っている。絵を描くという事は画面に自分の調和を求めて書き進めているのだと思う。この調和の感覚はそれぞれに違う。画面で違うと感じるところがあれば、全体に適合してゆくところを目指して、描き進めてゆく。
しかし、同時にその調和だけでは自分の世界観には十分ではないはずだ。人間はそう都合良く出来ていない。天邪鬼であったり、矛盾しているのが人間である。画面には調和だけでなく、同時に破たんが必要だと考えている。破綻と調和のせめぎあいが描く行為のような気がしている。
一つの調子だけで完成調和している絵は私には物足りない。世界は調和と破綻がない交ぜになっている。そんな認識がある。例えば安野光雅氏の水彩画は素晴らしいと思う。良く出来ていると思う。しかし、私には物足りないのだ。
その物足りなさは、破たんのないところである。ああここから先を描くことが絵なのではないかと考えてしまう。絵画はきれいごとではない。特に私絵画は自分の中にあるものを描くという事だ。外部的な上手くできた世界で終わりにすることができない。内部に存在する矛盾したものを描けるのが絵画だ。
見ていてわからないものを分からないままに描けるのが絵画だと考えている。理解が可能な範囲で描く予定調和の世界では満足できないものが自分の中にある。分からないけど、重要なことで出来ているのが世界だ。世界を表すものが絵画なのだから、分からないことを分からないままに表現する方法を考えない訳にはいかない。
自己矛盾のような世界を表現するために、対応してくれるのが水彩画である。今は油彩画でやれることはすべてできると考えいる。その上に油彩画では不可能な世界が大きく広がっていると考え
ている。水彩画を始めた時にはそこまでは考えていなかったのだが、今思えば良い選択だったと思う。
ている。水彩画を始めた時にはそこまでは考えていなかったのだが、今思えば良い選択だったと思う。
日本では油彩画か日本画でなければ職業画家として生活が出来ない。その為に水彩画で良い絵を描き始めて評価された人は、いつの間にか油彩画を描くようになる。例えば私の先生である春日部洋先生もそうである。もし先生が水彩画だけを描きつづければ、水彩画の技法を完成したのではないかと思う。
日本の絵の世界では水彩画は下描きの扱いである。未だ絵画技法としての位置を確立していないと言える状態である。その原因は日本の画壇の閉鎖的な慣習である。いまさらそんなことはどうでもいいのだが、若い人がその点で考え違いして、素晴らしい水彩画を選択できないことは残念なことだ。
この先あらゆる表現に挑戦してゆきたい。自分の身に着けてしまった方法を出来る限り忘れて、始めて描く気持ちで描いてゆきたい。それが水彩画の技法を見つける道だと思っている。まだまだ表現法には先があると思える。変わった特殊な方法ではなく、ごく当たり前に幼稚園の子供が描くような方法でもいろいろ表現が隠されているように思える。
自分の方法を確立しないように気お付けている。いつも次に向かってゆくつもりで描いている。慌てないで進めようと思っている。まだまだ水彩画の技法を考え初めて4年である。一切人のやり方から考えないことにしている。すべて自分の発見した方法で、探求してゆくつもりだ。