法務大臣葉梨康弘氏の死刑と印

   




 驚くべき法務大臣たる葉梨氏の発言があった。そして発言を取り消して、謝罪をして、罷免になった。世間もそのことを早くも忘れかけている。今回の法務大臣が死刑の朝ハンコを押すという話を持ちだして、軽い職務という発言をした。4回ぐらいそのことを口にしたらしい。

 死刑と言うことはそんな簡単なことではない。人間として許せない発言だ。未だ心にとげが刺さったままのこっている。死刑を軽々しく、朝にハンコを押したら、その時の昼のニュースになるだけが法務大臣と挨拶をした。最悪な人間性を疑わざる得ない発言をした。

 決して口にし手はならない言葉を口にしたのだ。こんな歪んだ人が法務大臣になる。政治家の質の低下が、いよいよ目立ってきているのだろう。葉梨という素晴らしい名前を頂きながら、こんなことで名を残すことになるとは情けないだろう。政治家の名誉など一転して恥になる。

 統一教会問題で自民党では200人もの国会議員が、事前調査で大臣枠から外れたのだ。事前報告をしないでごまかした人も居る。事前調査で漏れた山際経済再生担当相 も止めさせられた。細田衆議院議長も後から統一教会とかなり深い関係がある事が判明したが、どうも不問ということらしい。

 自民党の半分以上が統一協会と関係しているので、葉梨氏のような危なっかしい人材まで、大臣にせざる得なくなったのだろう。大臣は議員の年功序列もあるらしいから、能力で成るばかりではない。葉梨法務大臣はそもそも警察関係者らしい。

 警察官僚を法務大臣にするのは良くない選択である。法を力で守る警察権力と言う感覚で、死刑を話のネタに出来る法務大臣になってしまったように想像される。警察関係者にしてみれば、殺人を犯すような悪人は許しがたいと思わされる場面に接することが多いのだろう。法務という客観性が求められる職務とは似て非なるものだ。

 今回の発言は失言したという事で済まされることではない。そもそも政治家である前に、人間性に及ぶ問題であろう。こういう人格の人が、法務大臣の重大な責務としての死刑とハンコに対して、自覚できないような思想が歪んだ人格の人が、国会議員に選ばれるという選挙民の判断力の劣化である。

 さすがに自民党であれば何でも良いと言う選挙の選択では、民主主義は成立しない。葉梨氏はそもそも国会議員としての資質に欠けていると言わざる得ない。どんな人なのかと調べると、元警察官僚。自由民主党所属の衆議院議員六期。パチンコチェーンストア協会政治分野アドバイザー、IR議連副幹事長、自民党パチンコ議連事務局次長。 なるほど成るほどの経歴である。

 こうしてみると統一教会のようなえせ宗教も問題だが、賭博関連議員もかなり問題と言って良いだろう。選挙に有利だから、賭博関連に関わるという人達も問題なのだ。たぶん政治献金もあるはずだ。政治家というものはどうにもくだらない人種だ。

 末世になると、こんな人が法務大臣になるのか。もう余り政治には期待してはいないのだが、政治家のレベル低下は驚くべき所まで来ている。こんな事件が今後頻繁に繰り返されることだろう。しかし、野党も統一教会の集会に引きずり込まれている。そんな野党に今更何を期待すれば良いのか。情けないかな、自民党が統一教会と創価学会の票を分けてもらい当選する。

 この機会に死刑制度を考えてみる。死刑制度は消極的な賛成である。犯罪抑止力として一定の機能をしていると考えている。死刑は考え得る最も重い罰則であろう。その最悪の罰則を科さざる得ない犯罪者もいる。殺してやるといきり立った犯罪者が、殺せば死刑になると考えて、思いとどまることもあるだろうと思う。

 統計的には死刑を廃止しても、殺人事件が増加すると言うことは無いということは理解している。社会的背景が違うので、一概には言えないことだ。死刑制度のない国でも殺人事件が少ないという国も確かに多い。死刑に廃止に関してはキリスト教の背景が強いと思われる。死んでから最後の審判で神によって判断が下されるのだろう。

 日本は日本教の国である。人を殺した以上、自分の命であがなう以外にないという考えがある。人間は殺してやろうと思うほど怒りに取り込まれることがあるものだ。人殺しをしても死刑にならないとなれば、終身刑で刑務所暮らしを望むような、歪んだ人間は必ずいる。死刑になりたいから人を殺したなどと同期を主張した殺人犯もいた。

 人間を殺した罰は自分の命で償う以外にない。もし私自身が殺人を犯せばそう考える。殺人を犯して死刑を受ける人間はそう考えるほか無い。それほどの重大犯罪が殺人である。殺された人間の恐怖や無念は計り知れないものがある。殺された人のひどい結果を考えれば、非人間的な行為である死刑もやむを得ない。

 しかし、死刑という刑罰は国民の合意で人を殺すのである。重大な犯罪者とはいえ、国民が人を殺すと言うことはどのように言い訳をしても重い、辛い、苦しい判断である。この国民の代表として法務大臣は死刑の最終判断の判を押すのである。その意味と立場を理解して欲しい。

 もし罪と言うことだけで考えれば、死刑はあり得ないことだと考える。人間は罪
深いものだ。殺すと考えることだけでも罪であると言える。罪には重い軽いはない。罪を許すことは出来るのかも知れないが、罪を許すことと処罰とは別のことである。

 自分を殺したからといって、殺人者を死刑にしないでも良いといえる人はいるのかもしれない。犯罪を犯せば、その犯罪の程度に応じて処罰を受ける。健全な社会を維持するためには必要なことだ。だからかなりの税金投じて、犯罪者を刑務所に入れるわけだ。

 殺人罪を無くすと言う最終的な方角は、刑務所を無くすと言うことになる。刑務所の役割が本来犯罪者の矯正という事もあるが、余り矯正の効果が高いとはいえない。むしろ犯罪者を社会の中で矯正した方が、効果が高いという考えもある。

 良い社会であればそうなるに違いない。しかし犯罪者が現われると言うことは、十分に良い社会ではないという証である。社会の中で犯罪者が矯正できる受け皿がない。ある意味刑務所は次善の策と言える。さらに死刑制度はさらなる次善の策なのだろう。

 いずれにしても、犯した罪を生涯自覚していきるいがいにない。それは犯罪が露見しないでも同じことだ。罪という意味ではあらゆる人間が罪を犯し続けているともいえる。だから、人間の生きる罪を償うと言うことは、人のために生きるという形で、償い続けると言うことなのだろう。

 
 
 

 - Peace Cafe