第30回 水彩画 日曜展示
第30回 水彩画 日曜展示
93,「石垣島フサキ半島」
中盤全紙・ファブリアーノクラシコ
2020,11
94,「石垣島名蔵湾」
中判全紙
ファブリアーノ・クラシコ
2020,11
95,「名蔵湾沿いの田んぼの松」
中判全紙・ファブリアーノ・クラシコ
2020,11
小田原に来る前に石垣島で描いた絵だ。しばらく絵のことは忘れていた。日曜が来て、そうだ展示の日だと絵を思いだした。絵は描き終わったところで写真が撮ってある。こうして改めて見てみると自分が確かに描いた絵だとわかる。
良い絵だとも悪い絵だとも思えない。幾らか前よりも自分に対して正直に絵を描いている。ダメでも平気になったようだ。ダメなのが当たり前だと居直ったというか、ダメな奴が絵だけいいのでは困る。
絵は欠点は関係がないものだと改めて眺めている。要するに良いところがあるのかどうか。私絵画にとって良いところとは自分にはこう見えたと確信が持てる所のようだ。自分がこんな風に見たよなと、思える。見ているという絵に自分というものが宿っていればいい。
自分が通俗的な富士山を見たという時もあれば、自分しか見ないだろうという特殊な事もある。見るという事は視覚的に見るという事にも限定されない。哲学的であったり、観念的なものであったり、そんなこともどうでもいいようだ。
私の場合は自分の内部的な世界が、眼前の風景と通じた時に何か、火花のようなものが生じている。その理由はまだはっきりしない。少なくとも今回の絵は何かを見ている。それがとても重要だと思うようになった。
この見たという確信こそ重要なようだ。確信が持てないから、何度でも見えたのか、見たのかと確かめているのだろう。それでも絵は見えたものだけは、いくらか表現されている。これは嬉しいことだ。かすかなものであるが、何かしらは表現されている。
改めて絵を見ていると、石垣島に戻り絵を描くことが楽しみになってくる。7日8日とやはり山梨に行ってみたい。向昌院に行って墓参りはしなければ、おじいさんとおばあさんに申し訳がない。あんなに大切にしてくれたのだ。考えてみれば孫を預かって育てるという事は大変なことだ。向昌院からの眺めをもう一度確認してみたい。
子供の頃見ていた空間の意識が今の絵に反映している。どの絵も俯瞰的な構図である。これはまさに向昌院の梅の木の下から、甲府盆地を眺めている景色だ。おばあさんはいつも甲府盆地を眺めていた。生まれた油川の石原家を見ていたのだろうか。
おばあさんが良い景色だ良い景色だと言い続けていたので、いつの間にか良い景色とはこういうものだと刷り込まれたような気がする。自分の中にあるのかもしれない良い景色を見に行こうと思う。そして、その景色と自分の内部的なものが見ている物とは関係があるのかどうか考えてみたい。
こんなことを考えているのは昨日秦野のキャラリーぜんで見た石原さんの個展が刺激になっている。作品展を見るという事は1年ぶりぐらいだろう。たまにはこういう機会がないといけないなと思った。
マスクという展覧会である。描かれたものが、マスクで隠されている。マスクの下にある隠されたもの。見えないところに何かがあらわされている。絵画は見えないものを見えるようにするのだが、一度見えるようにしたものをもう一度見えないものにする。
ビニールに覆われた顔があった。描かれたものが良く見えなくなる。この息苦しさは他人事ではない実感があった。生身の人間という言葉があるが、外界と遮断された生身にはなれない人間、疎外。分断。
マスクをとれない人間。息苦しいコロナ時代。私には直截的なマスクよりも、さらに露骨なアベノマスクよりも、社会と遮断されたビニール人間が迫ってきた。