コロナウイルスと日本の方角

   



 コロナウイルスの人間への影響をみると、世界が変わることのできる、最後の機会ではなかろうか。原発事故は日本人の人間としての生き方への警告であった。しかし、日本人は恐れおののき逃げ惑ったが、すぐに忘れて又経済競争に戻った。

 コロナは忘れるわけには行かない。次の感染症の前段と考えた方がいい。コロナが流行した状況は何も変わらない。年々次のウイルスが登場しやすい状況が生まれている。人間の暮らし方が限界を超えてしまったのだ。

 先日アメリカの青年の4人に一人が、本気で自殺を考えたというまさかというような記事を読んだ。アメリカほど豊かな国の中で、どれほど心をさいなむようなことになっているのかと思う。コロナなどたいしたことではないと言い切る人達の、すさまじさを思う。

 原発事故で経済絶対主義から抜け出せるかと思えたが。しかし、日本は衰退しただけだった。原発事故の結果はアベ政権の既得権益死守に翻弄され、競争主義が悪い方に進んだだけであった。コロナは二回目の警告と考えなければならない。いまだ、経済活動を優先させろということになり、感染はさらに激しくなるばかりである。

 三回目の警告は環境破壊と気候変動であろう。もうこの三回目の警告は後戻りできない、人類の壊滅の宣告に近いものと思わざるえない。その意味で、コロナと言う二回目の警告を人間が受け止めることが出来るかどうかは未来の社会にとって、極めて重要なことになる。

 見ての通り、アベ政権はコロナは少々広がっても仕方がないという方向に進んでいる。経済が疲弊すれば、コロナどころではないという判断だろう。一見正しい判断のように見えるわけだが、実際にはコロナ2波が1波以上に拡大して行く中で、コロナの拡大は経済を破綻させると言うことが見えてきている。

 経済とコロナ感染拡大の両立など不可能なのだ。コロナなど何でも無いとうそぶく人は少ないのだ。そういえば、カドニューム汚染の時も害などないと飲んで見せた人が居た。放射能など何でも無いという人も居た。しかし、健全な人間には正しい恐れがある。

 コロナは二回目の人類への警告なのだ。人間は生き方を変えなければならないと、警告が発せられている。経済競争よりも、人間が共存して命を守らなければならないと言うことである。ところが、経済が厳しくなり、かえって国同士の軋轢も強まり始めている。

 コロナの警告は人間は自然環境を守り、自己本位ではダメだと言うことだ。具体的には都市生活を止めると言う方角であるが、それ以上に人間が生きるという目的にとって、重要なことは何かを歩を止めて考えてみろと言うことなのだろう。

 文明の方角がおかしくないかと言うことである。拝金主義や競争主義の蔓延が人間のをダメにしていないかと言うことではないだろうか。経済競争が軍事的な戦争に発展しかねない危険が近づいている。米中の経済対立はどこかで代理戦争が起こりそうだ。台湾は大丈夫だろうか。

 香港は中国の国内問題であるが、台湾はどうなるのだろうか。台湾はすばらしい国だと思う。今の中国に巻き込まれたら、大変なことになる。コロナも耐えて時間稼ぎが必要だ。中国が民主化されるまで、ともかく時間稼ぎをしなければならない。豊になり時間が経過すれば、民主化されるに違いない有能な人達だと思う。

  コロナ後の世界とは、「個の時代」と言うことになる。人との繋がりは直接的なものはかなり減少する。繋がりがないままに個がどのように生きる事ができるのか、と言うことにならざるえない。人間が社会的な人間でなくなる時代。良い面で見れば個の自立した時代と言うことになるのかもしれないが、孤立した人間が追い込まれる時代でもあるだろう。自殺願望はそういうことなのかもしれない。


 一人で自立することができない人の生きにくい時代に入るのだろう。厳しい時代であるが、これも受け入れるほか無い。一人の自給は2倍から、3倍の労力が必要になる。共同体的に暮らすとしても、どのように他の共同体と距離を持って暮らすことが望ましいことになるのか。

 人間が交流を絶つ時代というのは悪い時代だろう。みんなで肩を寄せて、飲んで歌うと言うことが出来ないで、人間は人間で居られるわけがない。新しい人間の関わり方を作り出す必要がある。新しい生活様式などとのんきなことを言っては居られない。コロナ自粛は緊急時の生活様式である。
 
 直近の問題としては、人間が都市に集まりすぎたことが問題を深刻化したと理解された。この機会に都市から地方に暮らし方を変えることが求められている。地方でも生活できる社会にならなければ、繰返し新型ウイルスが登場すると言うことである。

 日本という豊かな環境はつつましく生きることさえ決意すれば、大抵の場所で自給的に生きることが出来る。その一番の原点に戻れとコロナの警告は言っている。

 人間の交流は限定しなければならない。地域の交流がある程度閉じられた都市国家のようなものであろうか。都市には出入り口があり、検疫がなければ通過できないような状態。物流や情報交換も現状のままではダメだろう。次の人間社会の仕組みが出来るまで、人間はかなり悲惨な中で暮らさなければならない。

 地方で暮らすためには地方でも生計が立てられる社会と言うことが求められる。その一つがテレワークの普及であろう。たぶん企業と経済競争と言うことも変わる気がする。新しい競争のルールが出来るのか、巨大企業が新しい人間の暮らし方を導いて行くのだろうか。


 一次産業の位置づけも変わらって行くのだろう。食糧自給が国の安全保障であると言うことは一段深刻な認識になった。コロナは物流を制限するだろう。自給的国家が再評価されるはずだ。このとき企業活動がどう国と言うものと関係するのだろうか。

 テレワークは競争社会が激化して行くとしても、暮らしについては都会と距離を置くことが出来る可能性が生まれる。地方から都市への人口集中は世界共通のことであった。都市に行く以外に生計が立たないと言うこともあるのだろう。都市の方が自由度が高いと言うこともあるのだろう。教育や医療が都市にはあると言うこともある。競争経済は都市に機能を集中させる合理性を求めてきたのだろう。

 その都市集中が限界を超えた姿が、新型ウイルスの都市での蔓延であった。まさに都市は3密状態を生みやすい。キャバクラやホストクラブで感染が広がるように、都市の持つ自堕落さが、人間のどうしようも無いところを、都市は受け皿にもなった。

 すべてに限界がある。都市は新しい魅力を生み出し続けた。それが経済の活性化でもあった。不要不急のものこそ、都市の魅力である。都市文化が終わるためには、地方に都会に変わる魅力が、人間のダメさ加減も含めた幅のある許容度が求められるのかもしれない。

 石垣市はコロナ対策を、街宣車でマスクをしろ。出歩くなとまで言い続けていた。二回目の今回はそういうことはしていない。しかし、ゴーツートラベル前に、飲食店には徹底的なころな基準を設けた。基準に達した店を認定した。ところが、そこには風俗関連は含まれていなかった。

 これにはなにか市長の意図が働いていたような気がしてならない。どこかで風俗関連と石垣市の政治屋達が絡みついていた疑いを感じる。これが人間のダメさ加減を表している。一番感染源となりそうな場所をわざわざ除外していたのだ。まさか気付かないわけがない。
 前回の一回目の感染もそういう所で起きたのではないか。そして、予想通り二回目の感染もキャバクラで起きた。そのキャバクラ嬢が西表に出張したように見える。そして感染クラスターが起きた。コロナの時代はこうした人間のダメさ加減が露呈してくる。まず、当たり前のことが当たり前に出来るところからやらないとダメだ。

 

 - Peace Cafe