こんな時だから日本の方角を変えられる可能性がある。

   



 原発事故でも何も変わらなかった日本である。コロナ感染でも終われば、大きくは変わらないに違いない。アベ政権支持者は40%が続くのだろう。何故日本人が変化が出来なくなったかはいろいろ考えられるが、ともかく変わらないで行く可能性が高い。変わらないとは思うが、せめてこう言うときに、本当の幸せな国はどの方角にあるのかを考えるだけでも無駄ではない。

 誰もがこれからの10年間は下り坂の10年であることはなんとなく分かっている。原発事故の時に肝心な時を逸してしまった。もう上ろうにも手遅れになっている。アベノミクスの悲惨な時間経過であった。結局は危うくなればなるほど既得権益の死守だけが行われている。変わろうとする意欲が産まれなかった。残念なことだが、これは日本人すべての責任なのだろう。

 原発事故で日本人は目覚めるのではないかと思ったがダメだった。あれだけのことで何も変われない日本人なのだから、コロナでも終わればなかったことになると思うしかない。たぶん、この程度のことならインフルエンザと変わらないとか言って、安心しようとするのだろう。これは日本人の性根のようなもので、自ら変化すると言うことが不得意なのかもしれない。

 テレワークに期待したいと言うことを書いたが、どれくらいの会社が試みることが出来るのか。この状況でも多くの人が会社に通勤をしている。さすがの報道の世論圧力もパチンコ屋に行くなとは言うが、会社に行くなとは言わない。それはそうだ。報道関係者は会社で仕事をしている。それでも変われない日本人に変われという圧力が生じているはずだ。テレワークがいくらかでも始まると、変化が始まるかもしれない。この辺に希望を見るほかないか。

 日本列島という世界の最後のような所にやってきたのは、冒険心によってたどり着いたと言うより、追われ追われて流れ着いたような人達の集まりなのかもしれない。もうこの先行き場のない日本列島という場所に暮らすうちに独特の性格が加わったのかもしれない。


 日本人の優れたところも分かった。医療と物流の維持である。何があっても変わらないと言うことは、良い面に表われたのがこの2つなのだろう。ドイツの医療はすごいと言うが、日本の方がすごいと思う。死者が明らかに少ない。理由は様々の重なりがあるのだろうが、医療現場の頑張りが桁外れにすごいのだと思う。

 もう一つ見直したのは物流を支える仕組みである。自粛が叫ばれる中、食べ物がどこでも不足せず流れている。宅配便も普通に送られてくる。郵便もそうだ。石垣の郵便物は飛行機の減便で、遅れることが前提とされているが、さして遅れることがなく届いている。

 一方変わらないで困るのはパチンコ依存症。飲み屋依存症である。こんな機会は滅多に無いのだから、何とかパチンコを止めたらどうだろうか。飲み屋に入り浸るのも止めたらどうだろうか。今止められなければ、止める機会は滅多に来ない。それでも変われないのが人間である。

 今回一番ひどかったのは医療物資を準備しておかなかった。又想定外である。非常事態の準備が出来ない政府だ。自衛隊や米軍基地という軍事面の安全保障は必要以上に熱心だが、肝心の食料や医療物資が近隣諸国よりひどく遅れている。
 PCR検査が世界の中でも遅れた。今でもまだその準備が整わない。何故こう言う準備が日本が特別に遅れるのか。遅れていると言えばマスクもそうだ。日本人には何が重要なのかを判断する能力が欠落しているところがあるようだ。

 待っていれば誰かがなんとかしてくれるというような、自分が何かを始めなければならないという意欲が薄い性格である。これは、良い指導者が登場すると黙って従うと言うことになるので、効率的で良い場合もあるのだろう。自粛要請はだから上手くゆく。

 ところが指導者がアベ氏のような人の場合でも従うと言うことに意義を感じるようなことになってしまう。エライ人に従っていればなんとかなるだろうと思い込もうとしている。アベ氏にはそんな能力はどう考えてもない。やっていることがまるでトンチンカンだ。

 たとえば財務相の佐川氏のような姿である。アベ氏の行動についての正さの判断を放棄している。それは官僚と大多数の保守党の議員が同じである。アベノマスクであろうが、学校の休校であろうが、家で踊ろうコラボでも、10万円給付でも、自粛要請でも善悪の判断はしない。従うと言うことが性癖かのようである。ついて行けば救われるというお上信仰である。

 過去最低の政権であると書き続けているが、過去最低の官僚であり、与党議員であることも間違いがない。自分の考えがないにもかかわらず国会議員をやりたいのだからそう思うしかない。マスクの手当が出来ない。時間的な余裕が充分にあったにもかかわらず、PCR検査の準備が出来ない。


 待っていれば神風が吹いて、コロナウイルスが収まるだろうと思いたかったのだ。そして呆然と時が過ぎるのを待っているに過ぎない。出てき来たのが汚れのひどいアベノマスクである。どうも創価学会関係企業がマスク輸入に関わったと言うことが明るみに出てきた。どさくさに紛れて悪巧みだけはやる奴がいる。

 アベノマスクですら、判断が出来ない。従うほかないという国民である。日本が世界から遅れ始めていると言うことに、コロナウイルスは気付かせてくれた。残念ななことだが、その現実を自覚する以外に日本の後退を食い止めることは出来ないだろう。日本人が内向き志向になってアベ政権にしがみつく理由はここにある。


 小さな国として、実力に従った国作りを構築するほかない。方角は文化国家である。パチンコ議連ではパチンコを文化と強弁しているが、そういう文化ではなく健全な文化の国作りである。健全な文化とは人間の精神を高める文化である。芸術文化である。

 江戸時代がそのお手本である。江戸時代の安定した社会というものを見直す必要がある。鎖国をした自給自足国家である。江戸時代を否定的な観点を持ちながら、再評価すべきだ。世界一であろう豊かな国土を生かした国作りである。6000万人が安定して暮らせる国が目標である。落ちるところまで落ちれば、さすがに自分の足で立つ以外にないと気付くだろう。

 具体的に想像してみるならば、国民が自給自足をする。1家族が400坪の土地を国から借りて暮らす。食料はそれぞれの家族が自給を基本とする。一人家族であれば、150坪の広さになる。誰もが一日1時間は食料生産にあたる。

 テレワークになれば、通勤時間が食料生産の時間に充てられる。日本の生産力を変えることなく、安定した国作りが可能になる。小さいことは良いことだ。小さい単位で考えれば、解決出来きることは多い。地方に分散すれば、感染症への対応も可能になる。

 部落単位で共同作業を行う。部落は地域部落と言うより、自主編成の部落が良いであろう。50キロ四方ぐらいの範囲に暮らす人から、共通の方角の人で集まり一単位を作る。その大きさは一人でも良いし、100家族でも良い。

 そうした部落が集まりさらに大きな群になる。その上のまとまりとして単位が出来る。水系ごとの単位が望ましいのではないか。利根川上流域単位。酒匂川下流域単位。食糧の自給を合理的に行えるような単位を作り出す。

 単位は単位の学校を持ち、自主的な教育を育てる。単位での教育は基本的な生活が可能な教育である。そのうえに各単位の特長を生かした高等教育機関を設ける。これはインターネットで日本中から授業を受けることを可能とする。私はもうそのときには居ないだろうが、そういう世界が次の時代になる可能性はある。
 

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