コロナウイルスで死のことを考えた。

   



 「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」。道元禅師『正法眼蔵 諸悪莫作巻』の言葉。曹洞宗の僧侶であるのだから、当然自分の死のことは常に考えて来たつもりだ。死ぬと言うことを明らかにする。生きると言うことを明らかにする。

 死と言うことを認識して、今を生きている事に全力で当たる。いまやるべきことを考えて行動してきた。コロナウイルスの感染が広がり、今までの死に対する考えが、充分自分のことになっていなかったと改めて思った。死までの時間がはっきりしないと言うことにあるのではないかと。

 夜寝るときに死ぬと考えなさい、そして翌朝目覚めたときに生まれたと考えなさい。こう言う話を読んだことがある。悪くない考え方だと思うが、私のような俗物にはそのような例え話で自分を欺くことは出来ない。現実主義者には眠ることは眠ることで死の感覚とは遠いい。私は眠ると言うことに大きな安堵を覚える。眠ることはとても好きだ。

 1年という死を宣告されたのであれば、その期限で死んで行くと言うこと考えることになる。具体的には死を想像してみると、自分の場合は10年後には死ぬのだろうと言うぐらいである。100歳まで生ききるとか言うことにしているが、どこかでは80歳くらいと考えている。

 ただし、突然に死が訪れる可能性もかなり高くなっている。だから、あと一年というようなことが今すぐにもあると言う気持ちも持っている。コロナウイルス感染が広がり、その見えない死の皮膜が自分を包みこんだ。だからいつもこれが最後の絵になるかもしれないという気持ちで描いている。そう思うからと言って描く絵がどこか変わるかと言えばそんなこともない。普通に調子のいい方だ。

 10年ぐらいと言う考えは特別な根拠はないが、身体は健康な方である。明らかな疾患はない。70歳の平均余命は15.49歳というから、10年とみて大きくは外れないだろうと考えている。15年くらいと考えた方が統計的には正確かもしれないが。少なめの10年と考えて逆算している。残りの5年は生きているかもしれないが、絵が描ける状態かどうかはかなり疑問があると言う心配も含めてのことだ。

 このあと10年ということで、犬はもう飼えないな。と諦めている。車は買い換えればこれが最後のものになるな、などと時間を考える。石垣に越したのも70からの10年はあると言う前提であった。あと一年で死ぬ。夜寝るときに死ぬと思えば、石垣に越すことはなかった。

 寿命が10年あり、その後に死が来ると言うことは絵を描くことが許された時間と言うことである。それは想像するだけでも楽しい期待できる10年である。死を考えるより、残されている10年の方を考えている。生を明むる。

 10年あれば、自分の納得の行く絵が出来そうな気になるからだ。少なくともこのところ描いている絵は前に描いた絵よりは進んでいる。これは若い頃描いた絵と比べているわけではない。若い頃の絵は生まれついたもので方角が少し違うので比べようが無い。原発事故以降の絵と比べている。この調子で進めば、10年経てば少しは高い頂きに至る可能性はあると楽観的になる。

 若いときの絵と今の絵は違う。比較のしようがない。ある意味違う人間が描いたような絵と言う気がしている。良いとも悪いとも言い様がない。比較しても違うとしか言い様がない。比較できるなと思うのは、原発事故以降の絵だ。あのとき描くべき方向が定まった。そして、私絵画を始めた。これは造語であるからわかりにくいが、一言で言えば自分の修行のために描く絵だ。

 残りの時間を考える場合も、絵を描ける時間というものからだけ考えている。私が生きたと言うことを、すべて絵に絞りだそうと考えているからだ。つまらない奴であろうが、インチキな奴であろうが、そのままに私が画面に立ち現れてくれないかと思っている。そんな私が見ている風景を納得行くものとして描けないかと思っている。

 天才でないことはあまりにも明らかである。だけれども、かなり粘り強くは追求を続けられる凡人ではある。普通の人間の限界のようなものまではやってみたい。大半の人間が凡人なのだ。凡人の行き着くところまで行ってみる。たいした結果にはならないかもしれないが、限界まではやったなと思って死にたい。

 死を考えてみると、今までの一生というものは幸運に恵まれてきた。良い両親に恵まれたことが一番である。好きなことを見つけてそれをやり尽くせ、と言い続けて励ましてくれた。そして私が生きて行けるように道を付けてくれた。父も母も能力高い人であったから、そのおかげで今石垣島で絵を描いていられる。

 死と言うことでの安心のもう一つの幸運は、両親を介護しながら看取ることが出来たことだ。父も母も私と腕を取り合ってなくなった。ダメな息子ではあるが、精一杯のことは出来たという安心はある。だから、後は自分の死と言うことだけを考えればいいという所に居ることが出来る。親への恩返しは生き尽くすことだと思っている。たいしたものになれない一生であっても、それで許してくれる両親である。

 コロナ感染が広がる中で、誰もが死と言うことを考えたことだろう。特に70歳以上の人であれば、特別な病気などなくとも一気に死ぬ可能性がそれなりに高い。私が考えたことはあと、10年絵が描きたいと言うことであった。少し自分の絵が見え始めたところだ。ここで断ち切るわけには行かない。それは生き切る役割のような気もしている。

 コロナは完全に人との接触をなくせば感染することはない。この点で大いに迷いが生じた。死に対しては覚悟はあるつもりで居たが、人との接触を避けた方がいいのかどうかと言う点である。自分が感染して居る自覚がなく、感染源になり得るというところがやっかいな病気だ。私が静かに絵を描いていることが一番世のためと言うことになる。

 石垣島に居ると言うことから、石垣島で絵を描いている分には人と会うことのない生活である。これなら、コロナに関しては人に感染させる心配がない暮らしだ。小田原に行くと言うことは人と会うことになる。小田原に行くのはみんなと約束をしたことである。今年始めて田んぼに参加される人が居る。この方には分かることは伝えたいと話していたのだ。さてどうしたものかと思って、迷いの中に居る。

 コロナウイルスで死のことを確認させてもらえた。まるで自分が体験したかのように、死が身近になった。これは悪いことではなかった。改めてやれるだけのことはやり尽くしてやると思っている。一日を無駄には出来ない実感がある。今日一日を絵が描けたことに感謝が出来る。

 今日も崎枝に絵を描きに行く。あの美しい風景を前にして、絵が描ける幸せを感謝しながら絵を描かせて貰う。このブログもこうして書かせて貰っている。ありがたいことだ。読んでくれる人も居るから続いてきたことだ。書くことで分かったことも多い。生きていると言うことは、前より何かが分かるということがある。ありがたいことだ。

 - 暮らし