台湾が行けなくなって、与那国島旅行

   


 コウトウシランイエロー 八重山蘭の会・展示会

 台湾の台南に旅行計画を立てていた。台湾への航空機が飛ばなくなり、キャンセルすることになった。日本人が台湾に行くと言うことは、台湾の人を不安な気持ちにさせるのだろうから、今の時期は行かない方がいいとは思う。それでも行きたくて迷っている内に行けなくなった。

 台南ではちょうど今世界蘭会議と台湾蘭展が開かれているはずだ。前から見たいと思っていた。買ってくる蘭のリストまで用意したのだが、これは来年に先送りになる。果たして来年どうなっているかは少々不安であるが。

 台湾とベトナムはかなり徹底したコロナウイルス対策をとっている。武漢で感染が起きてすぐに中国からの入国は禁止している。それでもいくらか感染者が出ている。多くの人が中国に仕事に行っていた。戻ってきていることが原因しているのだろう。両国の対応は初期防疫のお手本になる見事な対応である。

 台湾に行けないならば、この機会に台湾に一番近い与那国島に行くことにした。せめて、与那国島から台湾を遠望しようという計画である。与那国島は台湾と一番付き合いの長い島だ。石垣から与那国島であれば不安もない。

 飛行機で30分だから、あっという間である。日帰りも可能な島である。飛行機の換気扇は家庭用の物より性能の高い物で、飛行機は密室状態にはなりにくいらしい。飛行機にもよるのかもしれないが。
 案外石垣島への観光は来てくれている。海外からはほぼ来なくなったが、日本の各地から、安心な石垣旅行を選択してくれているのだろう。確かに北海道でスキーより、石垣でダイビングだ。

 すべてに自粛すべきという空気が広まっている。自主規制圧力がある。無意味な自粛は科学性がない。石垣島にも与那国島にも感染者はいない。感染者が立ち寄った可能性がないとは言えないが、ともかくここ2週間は中国からの旅行者は見かけない。島は自然が豊かだし、感染症は広がりにくい。

 与那国島に旅行に行くことは何の問題もない。この時期だからこそ行くべきではないかとさえ思っている。不謹慎だからと言って自粛しすぎることで、かえっておかしなことも出てくる。科学的な知見に基づき萎縮しないことが大切だ。

 与那国島は一度は行きたいと考えていたので、この台湾旅行がダメで空いた時間で行ってみようと思っている。以前から、台湾との交流のことで、与那国島のことはいろいろ調べてきた。1945年以降、飲み屋が50軒も並んだ時代があるというのだ。12000人もの人口の時代があった。

 八重山毎日新聞の記者だった松田良孝さんの台湾と与那国に関わる本を三冊読んだ。それで石垣と与那国そして台湾の関係がいくらか理解できるようになった。そして台湾のスーアオを尋ねてみた。日本人の痕跡のような物は分からなかったが、台湾がいかに魅力的な国なのかは充分に分かった。台湾は人間がすばらしいのだ。懐かしく台湾の人を思い出す。いわゆる観光旅行という物は、本当に久しぶりだった。

 それで今回は台南旅行を計画していた。台南は台湾のふるい都である。昔の台湾の空気が残っているらしい。台北でもあんなに面白かったのだから、台南には大いに期待をした。台湾蘭展、世界蘭会議と2つの大きな蘭の展示会も見れる楽しみもあった。台湾の蘭は世界一とも言われている。

 どうしても台湾に行けないなら、与那国島に行ってみたくなった。与那国島にまつわる密貿易の女王ナツコの物語は興味深い。石垣島にもナツコに関係する物語がある。ナツコの家だったという所も見てみたいものだ。ナツコは石垣島を中心に台湾中国日本と自由に行き来したらしい。敗戦直後の混乱期である。

 与那国島の台湾に渡ったウミンチュウの豪傑達の話も面白い。人間がこんなにも活力があり、自分の腕と度胸で、台湾と与那国の海で生き抜いたのだ。飼い慣らされたような現代人よりもはるかに面白い。生きるという魅力に満ちた世界があったようだ。

 密貿易は犯罪と言うより、アメリカ軍を出し抜く英雄的行為のような気分があった。アメリカは敵国だった時代と隣り合わせの頃。私の叔父と父は相模原の米軍基地のトイレを壊して、それを材料に農作業小屋を建てたのを自慢にしていた。その小屋も結局は米軍に接収されたのだが、しっかりした土台まであったので、本建築という査定になったと、つまらないところで自慢をしていた。

 密貿易は国境の島ならではの話。背景には、与那国島や石垣島が古い時代から台湾がとても深い関係だったことがあった。国家という物が個人に対してどんな力を働かせるかと言うことにも興味がある。取り締まりがなければ、お隣の親しい島なのだ。

 石垣島から就職するとなれば台湾という時代があった。石垣の人が台湾で標準語を話せるようになったと言う。石垣島から台湾に出かけるのは都会に遊びに行く楽しみだったらしい。それは沖縄が本土復帰するまではそうだったらしい。与那国島には台湾帰りはハイカラさんというような唄があったという。

 今でも石垣島の高校生と与那国島の中学生は修学旅行は台湾である。高校生の交換留学生もいる。台湾の大学に行く生徒はかなりの数になる。次の世代は台湾とどういう関係を持つのだろうか。すばらしい若者に大いに期待できる気がする。

 与那国から台湾への航路は今はない。航空便もない。与那国から、花蓮市に行くには、石垣に来て、那覇に行って、それから台北、花蓮、という随分遠周りになってしまった。与那国島から向かいの花蓮港に行くなら、111キロだ。見える関係なのだ。

 今でも台湾に残っている銛で突くかじきまぐろ漁は与那国の漁師がそもそもやっていた漁法らしい。与那国島で鰹節を作り台湾に輸出するというような大きな産業もあったらしい。与那国の人が、台湾に鰹節工場も作っていた。鰹節が与那国島の最大の輸出産業だった。

 昭和初期台湾台北は30万の大都市である。与那国島は5000人。そして、与那国から台湾へ居留していた人が600人。沖縄の人が台湾に渡る歴史は明治中期に始まっている。日本の植民地になる以前に、与那国の人は台湾へ普通に渡っていたのだ。今の与那国島の人口は1700人。随分少なくなっている。

 台湾周辺でくり船で漁をして、日常品などを購入していたらしい。ウミンチュウは海流を読み、風を読みフィリピンのほうまで行ったという。そうした関係の中で台湾での漁業基地のような物が徐々にできて行く。今台湾には残るカジキマグロを銛で射止める漁は与那国の漁師が始めた物を伝授したらしい。

 与那国島は1950年頃には12000人の人口になる。島という物は現代社会では過疎が当たり前だが、江戸時代の多くの島はむしろ人間の暮らしやすい場所であった。人口が一番多かった時代は江戸時代という島が多いのだ。

 与那国は台湾との交易と言うこともあり、複雑な栄枯盛衰がある。そもそも日本人は3万年前の旧石器時代、台湾から船で与那国島に渡ってきたと思われる。そして西表島に来たのではないだろうか。国立科学博物館の実証実験で昨年ついに渡りきった。

 与那国島が歴史の記述に始めて登場したのは1479年、朝鮮の『成宗大王実録』という書物だ。漂流した韓国の漁民が与那国島にたどり着き、助けられ琉球列島沿いについに朝鮮に戻る。そして与那国の様子を報告した。与那国の人は朝鮮の漂流者を大切に遇したという。

 与那国島には人桝田(とぅんぐだ)という場所もあった。その田んぼでは時々緊急招集がかかり、その田んぼに入りきらない人は処刑されたという伝説がある。妊婦は崖の割れ目を飛んで渡れなければ死んだという。

 私はこういう伝説を嘘だと思っている。姥捨てのような伝説が何故できるのかと言うことには興味があるが、本当の島での暮らしは、意図的な人減らしなど必要のない暮らしである。人がそれほど増えないようのない過酷な暮らしでもある。しかし人が多ければそれなりに暮らせる環境でもある。与那国島12000人。石垣島で5万人は自給自足可能な人口密度である。

 それよりも「とぅんぐだ」と言う田んぼを見てみたい。どんな場所なのか。与那国の田んぼはどんな田んぼだろうか。与那国の田んぼの絵だけは描いてきたいと思っている。

 

 - 石垣島