石垣水彩画生活

   



 制作途中、もう少し


 この場所で描いている。

 この文章は一度公開したが没にして、先に延ばして書き直した。じぶんの日々描いている状態を文章化してみることは必要だと思っている。絵を描くことと同じくらい大切だ。

 絵を描くと言うことは、考えることだと思っているからだ。自然の美しさの表面をなぞるなら、きれい事ですむ。見えていることを掘り下げる必要もない。美しさを写し取る機械になればいい。自然という物は美しいだけではない。複雑怪奇で、恐ろしい物でもある。その全体に迫るためには、美しいと言うことの奥にあるものを見なければならない。

  絵を描いているときはただただ描いている。見ている風景を参考にしては、描こうとする色・濃度・筆触。そういう画面上のことに反応しているだけである。思いついて描こうと思ったことを一通り終わると、しばらく絵を眺めている。そうして絵の具の乾くのを待つ。

 そのときいろいろのことが浮んでいる。絵空事ではなく、現実を作り出したいなぁ、と良く思う。自分の絵を描く目で見たい物だと思う。一体何を見ているのかとそちらのほうがきになる。絵を良くするために何か問題点を探すようなことはしない。それが一番悪い方向だからだ。

 ファミマのカフェラテを飲みながら何となく思うのだから、そう深刻にではない。絵には見ているすばらしい風景以上に、真実として、存在して貰いたい。そうではないか。絵は風景とは全くの別の創造物であると言うこと。

 中川一政氏のユリの花を描いた絵は、ユリの花そのものとはまるで違う魅力がある。ユリと字を書いたとしても、ゆりとは違う創造的魅力がある。このようにものとしての魅力を作り出したいと言うことなのだろう。

 その作品の魅力とは中川一政氏の魅力なのだと思う。ここに創造と言うことがある。制作ということがある。描く人間の深い洞察が作品にあふれてくる。作品から、ユリの花を通して作者の人間が示される。そういう絵に何とか近づいて描きたい。

 それがまだできないのは、絵が下手だからではなく、人間がダメだと言うことが大きい。カフェラテなど飲みながら描いているからダメなんだとも思わないのだが。絵が人まねの匂いがするのが一番イヤだ。

 人間以上の絵などないわけだ。人間はひどいのだが、絵はいい等と言うことはありえない。絵が創作であれば当たり前のことだ。創作するというのは自分を絞り出すと言うこと。自分を別にして絵だけ何とかしようとしても無駄なことだ。自分を深める以外に絵は深まらない。

 何もない人間であるのなら、カラの絵でなければならない。くだらないない人間であるのなら、くだらない奴だなあーと言うような絵でなければならない。絵を見て描いた人が現われてくるようなものを描きたい。

 自分を深めると言うことは生きている限り続くことだろう。少なくともぼけて訳の分からなくならない以上、修行は続くと言うことになる。ひたすらに努力を続けるということのみ。それが絵に出てくるはずだと思っている。

 絵は自分の意思を示している。風景をこう見ているという意志的な物だ。特別に意識をしないとしても、いつの間にか絵は自分そのものである。絵がダメなのは自分がダメだからだ。絵がどうしようもないときは自分の状態がどうしようもないときだ。

 時々偶然のように絵が輝くことがある。自分の充実が高まっているときである。絵を描くためには描くときの状態が重要になる。毎日描いていて、ある日そういう暁光が来た様な感じがするときがある。それがあるので絵を描きに行く。

 前よりはいいぞとおもう。まだまだだけど、前よりはましではないかと。これだけである。前よりはいいというのは、新しい発見があると言うことだ。絵は前の物の踏襲では少しの充実もない。絵面がどうしようもないものでも、前の絵と違うと言うことが大切である。良くなっているのかどうかは、判断できないが確かに変化している。

 未だかつてないものを発見しなければ、絵は一歩たりとも深まらない。一枚の繪ができると言うことは新しい発見があったと言うことだ。同じと言うことは深まらないだけでなく、後退である。何かないか。どうにかならないか。そういう試行錯誤の先に新しい発見があるときに、自分の深まりがあるのではないかと思っている。

 過去を否定しなければ、次には行けない。昔の自分にしがみつくと言うことは、すでに心が衰退していると言うことになる。新しい発見に向かう。次の冒険に向かう。未知に立ち向かう心がなければ、自分の絵を深めることにはならない。

 自分の確立したものを日々壊して行くこと。前やったやり方に頼ってものを見るなどと言うことは弱い心の表れだ。ただ問題は自己否定の仕方だ。これを間違うと自己本位になりかねない。自分だけが満足することになる。

 どこまでも客観的な目を持って、自己否定を続ける。これができれば必ず自分には近づいて行く。そう思って絵を描いて行く。絵がそれを証明しているかどうかを冷静に見なければならない。絵は生きて行く指針のようなものだ。絵は生きる羅針盤だ。


 これは先日見つけた新しい場所である。ここで一枚だけ描いてみた。すばらしい場所である。力がある場所だ。石垣島は私の楽園である。次から次に描きたくなる場所が現われる。

 数えてみると、石垣島に始めてきて以来、今までに10カ所描いた場所がある。それはどこも家から30分有れば行ける場所だ。今日もどこに行ってもいいし、思う存分描けばいいだけである。これで行き着けないというのでは、なんとも情けない。やり尽くしてみる覚悟だけはある。

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