自分の絵を制作するのは難しい。

   




 いい絵を描こうとする事は誰にでもできる。良い絵が誰にでも描けるという意味ではない。良い絵という具体的な目標があれば、その方向に努力することは出来ると言う意味だ。
 しかし、自分の絵を描くと言うことは中々出来るものではない。自分と言うものが分からないものだからだ。むしろ、自分というものが分かりたいということが、絵を描くと言うことではないか。自分が見ていると言うことから、自分が美しいとか、感動するとか、そんなところに入って行く。
 私が自分の絵を描きたいと思うのは、いいと思う絵はなるほどその人が描いたと思えるだけだからだ。ゴッホの絵に感動するのはゴッホと言う人間内部の表現に感動している。ボナールの絵に魅入られてしまうのは、ボナールという人間の深い感性に感動している。マチスの絵に納得させられるのは、マチスの絵にあるマチスという人間の知性である。

 私という人間が人に感動を与えられるとも思えないが、ダメな私でいいから、私という存在が絵に表現されていて欲しいと考えている。それが出来ないとしても、自分の描く絵が、いわゆる良いとされるような絵の真似だけはイヤだと言うことである。

 ここに並べた、四枚の絵はここ1週間に同じ場所で描いたものだ。額装した作品は同じ場所で描いたものだが、1年ほど前のものだ。縦構図の絵が一番新しい絵で、横構図の三枚を描いた後に続けて描いたものだ。

 ここ1ヶ月は自分が表現したい世界を、何とか描こうとしている。つまり自分が画面に現われるように意識して描いている。こんな描き方は、久しぶりのことだ。ここ2,3年は意図的なものを捨てて、見えるままに描くようにしていた。自分の内なるものに向けた意識は久しぶりのことになる。いま、以前とはかなり違うことをしていると感じている。

 絵を描くというのは当たり前にそういうことなのはずなのだが、それが出来ないっで来た。良さそうな絵を真似してきただけだったのだ。やっと自分の中に、染みついていた客観評価のようなものから抜け出られそうな所まで来た。この歳になってやっと人目を気にしないようになった。

 見ている世界と自分の中の世界との関係のような曖昧なものを、具体的に画面の上で確かめるような制作をしている。絵を作るというようなものを写生に加えて行く描き方は、久しぶりのことだ。それにいくらか手応えがある。

 しばらく、こびりついた絵の描き方を精算することだけに専念してきた。ともかく見えるように描く。もちろんそれだけでも難しいのだが、絵らしい絵にしようという気持ちを捨て切れるまで、見えるように描くことに専念してきていた。こびりついたものを洗い流すのは本当に難しいことだった。



 この縦構図の絵が今回の石垣での最後の絵なのだが、海から空への色の帯は見えているものを、どう自分の絵として表現することが出来るかの試行錯誤の結果である。できているとは言わないが、やろうとしていることは出ている。

 石垣の海は手前にエメラルドグリーンのリーフ内の海がある。その先にリーフの外れの浅瀬があり、白波が立っている。そのさらに向こう側の海はセルレアンブルーで始まり、黒々とした外海まで続く。その黒い帯の上に空である。海に近い空はたいていの場合霞んでいる。霞んだ空の上にまさに青空が来る。その上にはやはりかなり濃いコバルトブルーが続いている。

 この感じがなんとも石垣島の風景の世界を感じさせる。晴れ晴れとした明るい世界が自分を惹きつけている。何かここに世界観につながるものを感じる。代えがたい世界をどうしたら表現できるものか、いろいろ試みている。見ている美しさの背景となる、自分の感じている世界を画面に再現したい。



 この絵の上部半分は描きたい世界が出て来たと感じたものだ。それでその考えを広げていった。地平線と海、そして空は描きたいように描けている。しかし、下半分がそれについて行っていない。絵全体になると曖昧になっている。それで、その次をやってみようと、最初にあげた縦構図を描いてみたわけだ。

 このときに空を狭くした。空を狭くすると同時に、手前の部分をとても弱く描いてみた。画面としてはおかしいくらい弱いのだが、それを意図に出来ないかと試みてみた。素描も何度か描いた。全体を充分に把握した上で、描いてみたい。

 少しすすんだのかと思えた。気分いいかというと、そうでもなくやはり不安ばかりである。まだまだと言うことなのだろう。制作はしたが、達成感はほとんどない。やればやるほど見えなくなる。行き着けども行き着けども、海の青。えせ山頭火

  問題は田んぼを区切る線にある。線が違う。そのために肝心の絵の中央部が自分の考えに近づかない。線ではなくどう表現したらいいのか。曖昧にしておけばそれとなく良いのだが、どこか違う。



 この絵が今回の始まりの絵だ。見えるように描いてみている。いいところもあるのでこの後をつづけてみたことになる。良いところは筆触に還元したところだ。筆触に表現できるものを整理しようとした。あれこれ試行錯誤している内に、少し重くなった。

 水彩は重くなってから軽くすると言うことは困難な場合がほとんどである。それで、この絵はここで置いておいて、次の絵で上部の空を広げて、さっぱりと描いてみたわけだ。

 同じ絵で出来ない場合、そのまま置いておいて、次の絵でやってみるようにしている。この絵で少し発見が出来たのが、描写の整理の仕方だった。筆触に置き換える意味のようなものだろう。かなり明確に見えているものを大きな筆触に置き換えてみた。そのやり方は私らしいと思えた。筆触は私にとって、色の次に重要かもしれない。

 田んぼの畦の表現がおかしかった。それは筆触が違うと言うことだと分かったのだがどうしようもないまま、終わった。この課題は続いている。この後にもう一枚描いてみた。今度は紙をパミスに変えてみた。今度は色が出ない。やはりファブリアーノの発色の良さはすごいものだ。
 
 今日は神田のアポロギャラリーで絵を語る会だ。一枚を選んでみて貰おうと思う。どんな風に見えるのか楽しみである。
 

 - 水彩画