井伏鱒二全集を読む楽しみ

   

 

 井伏鱒二全集を読んでいる。購入したのは25年も前になる。山北で開墾生活を始めた頃である。井伏鱒二の完全な全集が出るという話で思わず購入した。しかし、読む時間も余裕も無かった。開墾、養鶏に、田んぼにそして絵を描くことで、とても文学書を読むことはできなかった。

 それでも、井伏鱒二だけは全集だけは買っておこうと思った。きっとゆっくりと読めるようなときが来るというか、そういう日が来るように暮らそうという、目標だった。それが、25年経って読めるときが来た。これ以上無い贅沢のような気がする。石垣の景色の中で、ただ井伏鱒二を読んでいる。これ以上の日々はないような気がする。

 何しろ、この全集には井伏鱒二の水彩画編さえある。井伏鱒二という人はそもそも絵描きになろうとした人なのだ。ある日本画家に弟子入りしようとして断られて止めたそうだ。農業については私より詳しいほどの人である。動植物の蘊蓄もなかなかである。鶏も飼ったことがあるらしい。見本としたいような人なのだ。そうか、真似をして生きてきたようなものなのかもしれない。

 井伏鱒二は大学生の頃に好きなった。金沢の古本屋で買ったのが始まりである。高校の国語の教科書に山椒魚が出ていたものを読んで記憶があった。多くの人がそうかもしれない。頭でっかちになって、こもった穴蔵から出られなくなるということに衝撃を受けた。うなされるほど苦しい想像であった。

 良くもこんなことを考えたものだ。恐ろしいことだ。人ごとでは無い話だ。高校生の私は山椒魚のような人間だと自覚した。金沢で久しぶりに井伏鱒二の本に出会い、井伏鱒二という名前を見ると、手に取った。

 そういえばあの頃は金沢には古本屋が沢山あったが、今でもあるのだろうか。古本屋さんをぐるりと回るのが、野良犬の楽しみであった。駅の方から、笠舞の方の本屋さんまでうろうろと歩いた。卯辰山に住んでいた頃でも、歩いてどこまでも行った。海まで歩いたことさえあった。

 筑摩書房から出ている。厚手の本で全部で30巻ある。やっと読むことのできる日が来た。25年も待って読める日が来たことが嬉しい。1冊1ヶ月としても、30ヶ月も読むことができる。そうか、小田原では読まないのだから、4年ほど読める。

 死ぬまで読めないのでは無いかと思うときもあった。読む前に死んだらもったいないことだと。本はなにかしらいつも読んでいるのだが、井伏鱒二を読むのは特別なことだ。モーツアルトの音楽と一緒で特別なときのために残してある。

 慣れてはダメなものだ。救済のようなもので、いざというときに効果があるように、残してあったのだ。本当に苦しいときはアイネクライネを聞きたい。そのためには初めて聞いたようでありたい。そして心落ち着けた大切な時間には井伏鱒二を読みたい。

 繪を描く「間として」、井伏鱒二はとても良い。井伏鱒二を読む間として絵を描いているかのようである。文体に入り込む。意味なく、ただ読んでいて考えないでいる。気に触るようなところが無い。

 内容はどうでもいいと言えば言えるような文章の方が多い。山椒魚はその点異質である。話が面白いというものはむしろ少ない。どうでもいいような話が、ボコボコしながら、書かれている。結局は訥々とした文体にはまるという感じか。いやそうでは無い、大切すぎてこれが生きると言うことだと言うようなことが、何にげなく淡々と描かれている。

 井伏鱒二信者である。水彩画を描くし、農業にも関心も経験がある。麦を送るという短文があるが、この文章はそのまま書にして書きうつしたこともある。書にとしてみても名文である。あの有名な、「サヨナラダケガ人生ダ」の漢詩の訳などすごいものである。

 すごい技巧派の弓の名人が、この曲がった棒は何に使うものですかと、弓を忘れたようなすごさがある。それでは井伏鱒二の繪が、それなりのものかというと、悪くは無いのだがまあそれほどでも無い。天は2物を与えず。

 人間がすごいひとであるから、さすがに繪を分かってはいる。分かっているすごい人なのだから、梅原龍三郎のような絵を描いてもいいはずである。ところがそうもいかない。絵も文体ではないが、相当の熟達が必要なのだ。筆に自分を託せるためには、修練が必要である。修練を積んだすえの下手で無いと、上手くなりたい人の下手になる。

 初期の山椒魚、還流の島という青が島の話。「青ヶ島大概記」すごい力作である。青ヶ島の話はあまりにすごいので、コピーして人に渡したぐらいだ。そうした若いころの作品がすごいわけだが、なんでもない文章もすごいのである。そうした何でもない文章は、選集を作るときに外されたようだ。

 全集にはすべての文章があり、本人が駄文としたものもあるところがいい。今の私にはその外された文章の方がいいのだ。同じ文章が違う話にもう一度出てきたりする。
 
 太宰治が井伏鱒二選集の後記のようなものを書いている。まとめられたものが、青空文庫でよめる。井伏鱒二のこともわかるが、太宰治がすごいということもわかる。しかし、太宰のすごさは、さすがに絵を描く間としては読めない。取りつかれて頭に残り絵どころではなくなる。

 井伏鱒二の力も借りて絵を描いていると言うことになる。これで一歩進めないようなら、井伏鱒二先生の責任である。

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