石垣島に引っ越した理由がある
石垣島ではイネの収穫の終わった切り株から、再生してきたひこばえが穂を付けている。何もしないでも実る田んぼ。この実りは渡り鳥の餌になるようだ。イノシシも食べに来るのかもしれない。
このひこばえの実りは石垣島の野生動物の豊かさに影響しているのだろう。石垣では電柵があるのは、オモトの田んぼくらいだ。この点ではどこの田んぼにも電柵がある西表とは全く状況が違う。
私も残りの時間、ひこばえの実りを目指さなければならない。場所に恵まれれば、何もしないでもイネは2度目の実りを迎える。人間ははたして、この後実りはあるのだろうか。いよいよ、明日には70歳になる。自分のことを3日間続けて考えてみたい。
自分をやり尽くしたいという生き方は、高校生の時に萩野浩基先生から学んだものだ。自分の存在の果てまで行くために、パフォーマンスすることだといわれた。萩野先生は一世風靡セピアに影響を与えた人だ。そのときそのときを全力で生きること。
私にとっては自分の絵を描き尽くすと言うことができるかどうかである。方角は中学の頃から変わらない。笹村出として生きていると言うことが、絵を描くと言うことになる。絵のなかに、わたしの生きている姿が現われるような絵を描きたい。
何故絵を描くことが自分をやり尽くしたことになるか。日々の絵を描く手応えがそんな気持ちにさせているのかと思う。本来であれば、只管打坐でいいとおしえられた。座っているだけでその人をやり尽くすと言うことになる。
私には具体的な形が無いと、自分と向かい合うことが難しかった。それは乞食禅だといつもこびりついていた。しかし、乞食は乞食として行き尽くすほか無い。それが絵を描くことを方角に定めた理由だろう。
65歳の時に三線を始めた。音楽は好きではあったが、まともに取り組んだことは無かった。どちらかといえば、リズム音痴という自覚がある。記憶能力が低いという自覚もある。それでも三線をやってみることにした。65歳で新しいことがどこまでできるのか、試してみたかった。
音楽の絵画とを比べると音楽の方が直接的でわかりやすい。好き嫌い、良い悪い、評価基準が成立しているとも言える。カラオケで点数化されたものもあくらいだ。西洋音楽では楽譜にどれだけ近づけるかが、重要なのだろう。
八重山民謡では唄がどれだけその人であるかが大切にされる。唄では「タノール」があると言うらしい。しゃべるように唄うという。カラオケ点数で大工哲弘さんや金城弘美さんの唄のすごさは点数化できない。ただ聞けばその良さは分かる聞き手がいる。聞いて分かる、すごい聞き手が島中に広がっているところが八重山の音楽文化のすごいところなのだ。「タノール」の本当のところはまだ分からない。
人間の声を聞くと100人くらいは誰だか聞き分けられるのでは無いだろうか。これがバイオリンであれば、10器ぐらいで限界では無いか。何故、大工さんの唄が心に響くのか。私の声は私である。この当たり前で、あるところまで行くと言うことが、タノールなのかもしれない。もう少し突き詰めてみたい。
音楽は分かりやすいから、自分の成長というものが見える。それで三線に挑戦してみようと考えた。65歳を超えて楽器がものになるか。そして、自分らしい唄が唄えるようになるかである。人間の声にはどんな楽器にも勝るところがある。
ともかく、自分という存在に興味がある人間なのだ。投資をするなら、自分以外には無いと考える人間である。自己中という言葉がある。そうではないつもりだが、そう思われても仕方が無いとは思う。人間存在が面白いのは、やり尽くした先のことだ。
70歳までには石垣に引っ越そうと考えた。上手く引っ越すことができた。絵を描くことに何の不自由も無い。それはいつでもそうだったと思う。そのくらいすきなことを目指してに生きてきた。安心に暮らしている。ありがたいことだと思う。
いよいよ、70歳からは絵の最終段階になる。本当に絵を描いてきたのであれば、ここから自分の絵を描ける年代に入ると思っている。絵は本当であれば、死ぬまで良くなって行くはずのものである。人間てそういうものなんじゃ無いか。正しい姿勢で方角を定めて描いていれば、前に描いた絵より悪くなるはずが無い。
ところが、おおよその絵描きの生涯を通した絵を見ると、若いときの方がいい。40過ぎくらいからつまらなくなる。それは絵との向き合い方が悪いからだ。人まねでひねり出したり、好き嫌いで絵を進めたりしている人はそういうことになる。
絵はそういう人間の日々の生き様を反映する。人間勢いで40歳までは生きられると言うことかもしれない。才能のある人はそこらで出尽くす。私にはたいした才能が無かった。そして自給生活に入った。そこから、すべてをやり直した。やり直し方が分からなかったから、まず自分が出来上がっているすべてを換えてみようと考えた。
山北で自給生活を始めた。住む場所を山の奥に変えた。食べているものを変えようと考えた。食べているもので自分はできているのだから、すべてを自分の手で作り出すところからやり直してみようと考えた。
少なくとも私の絵は若い頃より今の方が自分だと思う。若い頃がまるで良くないと言うこともある。要領よく人まねができなかったからだと思う。真似はしていたのだが、要領が悪かったのだ。嬉しい気分では無かったが、今思えばそれは幸運だったと思う。
人生100年時代ならば、残りは最大30年である。わずかでも無駄にはできない。農業がなんとかできるのは75歳までであろう。ここまでは手作業の田んぼを継続してみる。タマネギ、大豆、麦もできる限り続けたい。まだ結論までやっていない感がある。
小田原にいるときは農業に専念している。一年に5回小田原生活である。田植え前後が一番長く、一ヶ月半だ。一ヶ月くらいがあと2回。2週間ほど2回となる。合計日数で125日だ。四ヶ月小田原である。石垣島の八ヶ月が絵を描く。小田原の四ヶ月は絵を描くために必要なものだ。
まだ田んぼや畑がある程度はできる。体が動く間はこの暮らしを続けたい。75歳を目標にしている。そのためには、体を鍛え、健康に留意しなければならない。今現在は田んぼでも畑でも衰えたと感じるほどのことはない。何とかあと5年やらせて貰いたい。
石垣にいるときは絵だけを描く。絵を描くには他のことはない方がいい。石垣に移ったのはそういうこともある。しがらみがない。引っ越しをして知り合いができないという話を聞くが、知り合いが居ないからいいのである。友遠方より来るまた楽しからずや。