自然農法の科学
自然農法はどこまでも科学的でなければならない。自然農法を長年されている方と一緒にタマネギを作ろうという話し合いをもったことがある。そしてお互いの農法の様子を学び合おうと話し合った。話の最初はぜひやろうということだったのだが、最後の段階でできないということになった。
自然農法は5年間は準備がいるので、すぐに結果が出ないということだった。それなら5年かけてやってみようじゃないかと話したが、やることにはならなかった。目の前で同じ条件で見せてもらえば、良く分かる。
結果と原因は必ず科学的な論理で繋がっていなければならないのが科学だ。なぜか自然農法は怪しい世界が入り込みやすい。自然農法はいいのだが、似非科学を排除することが、東洋4000年の循環農業への道だと考えている。
農業は自然の摂理に従い行われるものだから、自然崇拝を生みやすい世界になる。農業は当然ながら科学的なものだから、妙に飛躍した考えたは出来る限り排除した方が良い。それには実証以外にない。微生物が放射能を取り除くとか、植物が原子転換を行ているというのも、似非科学である。科学はそういう人間の蒙昧を克服してゆく為にあるのだと思う。迷信を並べてみる。
「月の満ち欠けで、農業をうんぬんする件。」 シュタイナー農法というのがそうらしい。良くは知らないが牛の角や血液などの波動云々等、非科学的ななものが持ち出される。月がこうだったからという話は半分は当たる。外れた半分に対して目をつむるのが似非科学である。太陽の絶対的な影響に比べれば、月の影響など微々たるものだ。農業では月をうんぬんするくらいなら、太陽の力を科学的に考えるべきだ。太陽の黒点一つでも、気候に大きな影響がある。農業を行うものが真剣に対峙すべき自然は太陽だ。月もいいけど太陽もね。
『雑草を抜いてはならない。 」雑草の中でタマネギやニンジンを作ってみろと言いたい。それが出来てから話を聞きたい。雑草があることでよく成育する植物もあれば、雑草を嫌う植物もある。自然を観察すれば当たり前すぎることだ。農業は実践である。雑草の驚異的な繁殖力を観察すべきだ。
雑草は今や、国境がない。ありとあらゆる性格の雑草が現れる。手に負えない帰化雑草が忽ち畑を覆いつくすこともある。代々の農家が徹底して悪い草を排除したところなら、出来たのかもしれないが。今の時代無除草は、極めて困難だ。
『農薬を使う田んぼには鳥が寄り付かない。」 観察に偏見を持たなければ、そんなことはない事がすぐわかる。鳥は餌の多いい田んぼに来る。農薬を使うとエサの昆虫が減るのだろう。
農薬を感知するわけではない。最初にえさ場にした田んぼに来る。夜寝るときは安全な場所に寝る。トキやコウノトリが居なくなったのは、農薬を使ったことや水路がコンクリート化され、餌が亡くなったことが大きいだろう。
農薬に汚染された餌を食べ、繁殖率が下がった。数が減少しさらに繁殖能力が減った。見ていれば雀が嫌がる田んぼなどない。餌は意外に農薬を使っていてもオタマジャクシなど大量にいたりする。農薬の使い方や、種類にもよるのかもしれない。せめてどういう農薬を使うと鳥が来なくなるかまで観察してほしい。
「耕さない堅い土ほど植物の根は深く入る。 」不耕起栽培の信仰である。普通はそういう事は起きない。田んぼの耕盤の硬い土を突き抜く植物もあるが、根を張れない植物の方がはるかに多いい。
団粒化している空隙のある土の方が根は広がる。不耕起栽培でいい植物ばかりなら誰が耕すものか。東洋4000年の永続農業は、ひたすら耕し続けたのだ。それは寿命を短くするほど厳しいものであった。
ここでの耕作はあくまで手でやる範囲である。機械での土の耕し過ぎは腐植を減らしてしまうという事はある。土壌を作物に応じて耕す事が悪いことのはずがない。
「自然農法の作物は安全でおいしい。 」自分で作ったものが美味しいのが普通だ。味というものは主観的なものだ。自分で作れば大抵のものはおいしく感じる。作る苦労も食べているからだ。喜んで食べることが美味しいことになる。人間の原点は、作る喜びと味覚が結びついている。
同時に、枯れかかった植物、病気でやられた植物、虫にいためられた植物、こうした瀕死の植物に実った作物が美味しい訳がない。まずは健全な作物であることが大前提である。自然農法にはおいしい作物が多くあると言う位だろう。
「糖質は中毒になるほど、身体に悪いものだ。」だいたいの食養生を唱える人が砂糖の批判をする。砂糖には迷惑な話だ。砂糖が中毒になるほどおいしいという事はある。しかし、成分的にお酒やたばこのように中毒になる要素はない。
ただただおいしいから取り過ぎるという事に過ぎない。どんなものでも取り過ぎは体に悪い。節制ができるのであれば、砂糖も良いものである。これは農業神話ではないが、沖縄でのサトウキビ農業は最後の砦なのだ。沖縄の砂糖を大切にしよう。
「〇〇菌が農業を救う。 」〇〇の中に入れる言葉をあれかと思う人も多いだろう。癌が治るとか、自動車の燃費が良くなるとまで言っている、あれである。最近下火になってきたのは良いことだ。
微生物は農業を救うというのであれば可能性はあると思う。しかし、微生物を購入しなければできないような奇妙な形の農業にはかかわらないことだ。農業はその土地にあるものを生かすことが基本だ。微生物はどこにでも無限というほど存在する。それを生かす技術を見つけるのが農業技術である。
「奇跡の水の農業利用 」水の波動が農作物に作用するなどと言われる。水の磁場を変えるなどと訳の分からないことも言われる。いずれにしても農業利用には無駄なことだ。機械的に水の性質を変えるなど、自然を生かす農業とは程遠いいものだ。自然界の良い水を使う事が大切なのだ。
まだまだ農業迷信はあると思う。どんな農法も同じ土地で、1反以上の畑で、5年以上継続して行ってから、結果を見なければならない。何しろ4000年循環できるかどうかなのだ。
こうした迷信に迷うという事は、不可思議を信じたいという心の弱さからも来るのだろう。農業を行うという事は、自然の摂理を知り、迷信から抜け出る科学的視野を持つという事でもある。その為に自然と接し、作物を栽培してるようなものだ。極力実証的精神に立ち、科学的な思考をしなければいけない。