石垣島でなつぞらを描く

   

 NHKの朝の連ドラで「なつぞら」というアニメーターの話が放送されている。高畑氏や宮崎駿氏ともに、アニメーション映画の草創期に現れた女性アニメーターの話である。このタイトル画面のアニメーションの雲の描き方が面白い。前回もタイトル画面で、安藤サクラさんの歩き方に見とれていたが、今回はタイトルバックの空の表現をつい凝視してしまう。
 
 
 「なつぞら」と言うぐらいなのだから、さすがにこのなつぞらの描き方には力が入っている。白い中の色の微妙な変化。グレーの陰の中に、わずかにあるピンクとブルー。この微妙さにひかれる。日本のアニメーション映画のレベルの高さがここにある。
 
 ここでの空の描き方は写真に極めて近いものだ。このテレビに実際に現れる十勝の牧場のソラは、まさにこの空に近い。むしろ、テレビの映像表現はアニメーションに近いのかもしれない。説明の方に力点が置かれる。
 
 雲は白い。自由に形を変える。背景となる青空は微妙なグラデーションを感じさせながら、まずは変化のすくない青色である。雲が雲らしい形をしているなどということは案外に無い。しかし、人間のイメージの中には夏の雲と言えばこれという、形がある。テレビ映像ではそういう選択をする。
 
 入道雲のややおとなしめのものと言えば、伝わるだろうか。もこもこと盛り上がっては居るが、大げさな入道型では無く、平凡な雲の形である。イラストで描く雲と言えば大体こうなるというようなものだ。
 
 なつぞらの雲を毎朝見ながら、自分の書いている雲を考えた。私は石垣の夏の雲を描いている。しばらく前に石垣は夏になった。暑いと言うだけで無く、雲が変わった。この雲がいい。石垣の雲は素晴らしい雲だ。それを見ながら、全く違う雲を描いている。
 
 雲が素晴らしいのは、雲が天才であるだけで無く、希望の象徴だからだ。雲という字は夢に似ている。雲を見ていると何故か遠くの夢を見させてくれる。
 
 好きなことを見つける。これが10代の主たる目的だった。何が好きなのかが分からなかった。そこで一応は絵を描くことが好きだということにした。もちろん嫌いではないし、小さい頃からよく描いていた。しかし、好きと言うことなのかは分からなかった。
 
 金沢に行って、絵にしがみついたという感じだろう。金沢の空はまるで変色した銀箔のような重さだった。この暗い雲の壁の中で、熱い情熱の夢を見た。精神の夢を深めてゆくことのできる重厚な雲だった。
 
 金沢にいた自分というものには、よって立つ場がなかった。絵を描く自分というもので、自己確認をしようとしていた。ここから、考える核のようなものができて、良い絵を描くことの自分が、目指すべき自分なのだろうと考えた。例えば自給自足は絵を描くためだと考えることができるようになった。
 
 石垣に来て、全く解放されたような空を見ている。この何者をも連想しない、純な空を描いている。そうしたら、それが「なつぞら」のタイトルバックの空の何もなさに似ている。絵に現れた雲の実際はまるで違うが、何も無いと言うことはアニメーションの空は本当に何も感じさせない。空虚な空気感がある。
 
 絵画の空というものは、私が見ている空にならなければならない。見るという主体の居る空。ゴッホのカラスの飛んでゆく夕まぐれの空は、ゴッホの空以外の何物でも無い。私が描く石垣の空は、ここから始まった、いよいよ残りの笹村出の姿の空で無ければならない。
 
 近いものと言えば、児島善三郎氏の近代美術館にある「アルプスへの道」の空である。新しい絵の世界を切り開く覚悟の空である。そう思って絵を見れば、まだまだである。誰が考えてもまだまだであるが、方角だけは間違えないで、描いてゆきたい。
 
 ここからは、 余分な付け足しかもしれないが、空に何故自分の見方が現れるかと言えば、空は変幻自在でどうとでもなるからだ。それは水も同様である。水もどう描いても水。人の顔のようにここが目で、ここが鼻というような意味が薄い。逆に言えば、そうなっていたのでそう描いたと言う限界が少ない。
 
 つまり、絵を描くと言うことは、空を描くようにすべてを自分の絵として描くべきだということになる。私が田んぼの水面が好きなのは、それが現実であり、眼前にある。ところが、そこに見える世界は、地面でも無い、水面でも無い、映る雲でも無い。イネの株でも無い。水中のオタマジャクシでも無い。視点を変えるだけで、ありとあらゆるものが、見えたり見えなかったりする。
 
 この幻影のような世界を自分の目で見ているという視点。ここに私の描く絵があるように思っている。
 
 
 
 
 
 

 - 水彩画, 石垣島