日本をあきらめきれない。
日本文化素晴らしいものだ。作物の生育に呼吸を合わせるような暮らしのことだ。里山の暮らしのことである。そこにある暮らしは、実に厳しいもので簡単なことではなかった。いつ病気にかかり死んでしまうかもしれない。厳しい災害もいつ起こるかもしれない。年貢を納められるかどうかの不安もある。これは確かに克服されなければならないような、暮らしに違いない。しかし、この厳しい暮らしの方が良い面もあった。鎖国下の江戸時代の暮らしを見直す。里山の暮らしを見直す。ここに日本人の失ってはならない大切なものがあると思う。国が滅びに向っている。支配階級が登場する。アベ政権の姿は上級国民というおかしな言葉の出現が当然のように感じさせる。国民に広がり始めた、所属意識の喪失。それが依存意識になり支配者の不思議な優越意識を生み出している。若い世代ほど、支配されることに安堵を覚えるようだ。若者が新しい時代を切り開くような意識よりも、現状の中で要領よく自分が優位な立場に立ちたいという意識になっている。競争に目を奪われ、競争の方向には是非を問わないという事のようだ。例えば、それがゲームの世界であれ、上手になりプロになり、高収入に成れれば人生は成功と考える。
日本文化ではスポーツであっても、道というものに繋がるという意識であった。強いという事は目標ではなく、過程である。強いという事の奥にはさらに深遠な世界が広がっているという意識である。大相撲ではモンゴル出身力士が強い。しかし、朝青龍、白鵬、日馬富士、強い横綱が人格としてはかなり問題を抱えている。少なくとも日本文化における相撲道というものからすれば、横綱は人間としても崇高なものであり、道をわきまえた者である。なぜこうした違和感が生じるのかと言えば、モンゴル文化と日本文化とは異なるからであろう。こうしたことでも、若い人たちには何故白鵬の行動が問題なのかは皮膚感覚では感じられないのではないだろうか。相撲のしきたりに違反していて問題という事は理解できるのであろう。しかし、白鵬が間違っていると私が感じるのは、日本文化の理解不足である。それは言動のすべてに、横綱としてのふるまいではないな。と思わざる得ないわけだ。それはバトミントンの世界ナンバーワンの日本選手が、スポーツで競争を極めていたもので、賭博の勝ち負けにも惹きつけられたと話した時と同じである。日本のかつての文化からすると方角が違っている。
道徳教育が義務教育の成果にされるという。ここで言う道徳では、日本の伝統文化をどう扱うのであろうか。また、こうした競争主義をどう扱うのであろうか。拝金主義をどう扱うのであろうか。私には扱いようがないと見える。社会に倫理的な規範というものがない。アベ政権の振る舞いが規範にならない。傲慢政権である。忖度などという、隷属意識が蔓延している。既得権益集団の存在を許している。その集団が守りの姿勢で、上層階級を形成している。新しい勢力は出現せず。自分をなんとか上層階層に勝ち登らせようともがく。そこには当然腐敗が生じている。その腐敗に対して、社会はほぼ批判力を失いつつある。あの安倍氏の奥さんが行った安倍小学校汚職も、当たり前だろう程度に収まりつつある。もういい加減にしてくれと言うような投げやりな無気力感が社会に蔓延を始めている。不正をただすというより、不正が出来るような立場に上手く自分が立ちたいという人たちが多数派を占めつつある。
一人一人が自分の暮らしを正しく頑張れば日本は良い国になるのだと思っていた。日本の素晴らしい文化がさらに広がるのだろうと思っていた。これは間違っていたようだ。もう全体が良くなるようなことは期待できなくなってしまった。衣食足りて礼節を知る。と思っていたが、逆であった。日本国という単位では諦めざる得ないようだ。日本文化の中に生きようとしたら、自分たちと価値の共有できるもので、繋がる以外にないのだろうと思う。一つのユートピア思想なのかもしれないが、日本の伝統文化を共有できる仲間の形成である。それは具体的に言えば、「地場・旬・自給」思想ではないかと考えている。それそれの地域で自分の暮らしを模索してゆく。一人の自給を緩やかに連帯する。孤立するのではなく、新しい連帯の方法を模索する。悪い時代は必ず破たんをする。それでも自分たちの日本文化根差した暮らしは守れるように生きる。敗北主義のような感じもするが、ここまで来てしまった以上ほかに道はないようだ。