一人暮らしの孤独感

   

麦の会の小麦畑 追肥、土寄せ後の様子

人間はそもそも一人である。孤独老人などという言葉はどうも甘ちょろいお話。人間生死に向かい合う事が、自分を自覚するという事。もっと深刻に、ごく当たり前に一人である。個の確立があれば、孤独とは関係がない。私絵画を描くという事はそいう事と向かい合っているということになる。自分というものと向かい合わないで、私絵画の絵が描ける訳もない。人間一人で生まれてきて、一人で死んでゆく。これは有難くもないが、事実だ。寂しいものであるが、受け入れるしかない。受け入れるしかないのであれば、正面で向かい合った方がいいと思いやっている。なんとなく暮らしに紛らわせて、命の意味を避けるつもりはない。今の室温は4度だ。暖房は使わない。寒いからこういうことを考えるのだろうか。一人で自分というものと向かい合うという事は、孤独とは違う。人は個であるが、それを孤独という言葉で表すのは違う。言葉は怖いものだ。個の自覚は孤独という言葉では置き換えられるものではない。個は自己確認の最初の道であり、前向きで厳しいものだ。孤立という言葉ならまらまだいいが孤独はいけない。孤立は個であるという事からいつも起こることだだからだ。

「連帯を求めて孤立を恐れず。」共産党員時代の詩人谷川雁の言葉だという。(谷川雁についてはまた別稿で、前に書いた気もする。)それが全共闘運動の安田講堂の壁に殴り書きされていた。1969年の昔兵舎だった金沢大学の美術部の壁にもその言葉は書かれた。それは自分の自給生活の根に残っていた。言葉が自分を励ました。一人で生きる。個で生きなければならない。だからこそ、人とのかかわりを失ってはならない。人に依存しながらの孤独など甘ちょろい。こういう思いつめた気持ちで始まった、開墾生活だった。「その辺のもので生きる。」鹿児島で自給生活をしている青年の座右の銘だそうだ。この軽さがなかなかいいではないか。力みがないところが、私よりだいぶ上質である。山の中で自給を目指し、開墾生活をした。それは案外たやすいことであった。偉そうに孤立を誇るようなことではなかった。自給生活は到底生きる目的というようなものではない。ここから生きるが始まる自覚。個に生きるものこそ連帯を求めなければならない。「力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」壁にかかれた言葉はこのように続く。あの言葉が残っていて、あしがら農の会を始めたのだと思う。

小田原生活は一人暮らしである。やはり自分と向かい合う。石川県体育館裏の、馬小屋で寝泊まりしていたころを思い出す。寒かったせいなのだろう。孤独とも孤立とも思わないが、少し内省的に暮らすことになる。このブログの向こうにいる、一人で生きている人を思う。連帯なのか、甘えなのかはわからないが、記憶をたどりながら、どこかで誰かに無数に、永遠に繋がっているのだと思う。そういう事が絵を描くときの色に出たりする。色の記憶。これは案外に深いところに染み付き消えない。学生の時の授業で描いた、桜の木の濡れた幹の色。あの濡れ色の深さはどういう訳か今も思い出す。きっと大学にいたころはロマンチスト的に甘ちょろく孤独だったのだろう。私の笠舞の下宿にはいつも誰かが泊まりにきているような、賑やかなものであったが、孤独というような気分は今よりずっと強かった。この孤独は理解されないという、甘えに裏付けられた情けないものであったと思う。

70年も生きて来て個である自覚を、孤独というような言葉で表わしてしまうと実につまらない。後ろ向きでしかない。通俗でしかない。孤独はせいぜい若者の独りよがりの世界観にお任せする。老人としての私は近づく死を自覚して、個として自立しなければ恥ずかしい。個である確認のおしまいは死の自覚だ。孤独は群衆の中の孤立感である。群衆という想念の中の孤立。人間は最後には一人の存在としての自覚に至ることだろう。死ぬという事がそういう当たり前の事なのだから、死が身近になれば個としての存在の自覚を考えることが当たり前のことになる。自分とは何か。死を前にしてそういう事になるのではないか。いつまでたっても分かりたい肝心なことに至れないのは情けない限りである。修業は確かに不足している。そのちょっと先まで行きたいから絵を描く。そういう事ではなかろうか。

 

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