商業捕鯨再開の是非
捕鯨問題は複雑なところがある。ところが、賛否の両論とも考え方が一方的で、かみあった議論になっていない。世界の大勢を占める意見としては、感情のある高等動物だから、捕鯨はやめるべきだという主張。一方に牛や豚を食べているのに、なぜクジラがいけないのかというような素朴な意見。どちらの意見も、不十分すぎる。高等動物だからいけないという根拠があいまいすぎる。菜食主義であるべきというなら理解できるが、下等な動物なら食べてもいいという考え方が、論理として整理されていない。牛や豚を食べてよいという意味は家畜は食べてよいが、野生動物はいけないということだろう。ではイノシシやシカは食べてはいけないのだろうか。ここにさらに伝統文化だから食べてもよいという意味がまぜこぜに加わる。つまり、議論が成立しない状況のまま、日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)に脱退を通告した。このことが日本の一国主義を世界に示すことになってしまったところが、極めて残念なことだ。アメリカがCO2排出枠を決めたパリ議定書からの脱退をしたのと同じように世界からは見える。
この脱退という行為は、捕鯨云々ではなく、日本は自国の利益のためには国際協定の枠から抜ける国だとみられることになる。日本は一国主義では生きて行けない国だ。領土問題であれ、徴用工問題であれ、日本政府の世界に対する主張が一国主義に基づくものとみられる可能性が高まったということだろう。国際捕鯨委員会での参加国の委員が、聞く耳を持たないということもあるが、長年の日本のやり方への不信もある。調査捕鯨と言いながら、商業捕鯨をやり続けるという姑息なやり方である。科学的調査というだけなら、殺さないで調べることも方法はいくらでもある。象の生息状態を調べるのに、殺して肉を食べながらというやり方は、どれほど科学的調査と言いながらも理解されにくいものだろう。
では伝統的食文化という意味はどう考えればよいのだろう。日本の近海のみで捕鯨を行うと日本は主張している。遠洋での捕鯨は行わないということは決まった。日本近海にいる3種類の、資源の豊富なミンククジラなどをとるというのだ。この考え方は第三の道で、一歩前進である。ところが捕鯨委員会を脱退するという行為が目立ち、第三の道も評価されないことになってしまったのではなかろうか。議論の進め方が下手すぎる。伝統的食文化であるからと言って、許されないものもある。犬食文化を考えるとわかりやすい。世界では毎年何千万ぴきの犬が食べられている。東アジアが中心である。畜産として行われている。世界からの批判は強く、徐々に縮小禁止される方向ではあるが、今も犬食は行われている。そもそもどの民族も犬は食べていたはずだ。それが、宗教的な意味、実用的な意味、愛玩的な意味から徐々になくなってきた伝統文化である。犬を食べない大半の日本人にしてみれば、伝統文化ということで食べている人が異様に見えるわけだ。伝統文化というだけで許されるものではないと考えた方がいい。
第4の道として、日本も捕鯨を禁止するという将来像を宣言するのはどうだろうか。ただし、今捕鯨に携わる人のみ、沿岸捕鯨を特例として許してもらう。その人たちが働けなくなる時が捕鯨が終わるときとする。食べる側の人も、伝統食としてどうしても食べないと居られないという人も、老齢化が進んでいる。この先新たなクジラ肉好きを作らないことだ。小学校で捕鯨オリンピックの映画が上映された。日本が捕獲頭数で金メダルだと誇らしげに示す、宣伝映画である。クジラを大切に食べるのは日本人だけだと主張していた。あんなとんでもない映画を上映していた文部省の将来の展望のなさを、反省してもらいたい。私は養鶏業をしてきた。鶏肉を食べてきた。偉そうなことは言えない立場ではあるが。