主食作物を作る意味

   

同じ農業をするのでも、私にとっては主食を作る農業は位置づけが違う。主食を作ることは生きる為の食という意味になる。食糧自給率を考える場合でも、主食は別に考える必要がある。麦を主食とする文化。ジャガイモを主食にする文化、トウモロコシ、タロイモ、農耕民族が誕生する歴史の中で、それぞれの主食文化が形成されたはずだ。日本という国はお米を主食に選らんだ。日本の気候と地形と土壌が稲作に向いていたのだろう。日本にやってきた様々な技術は、日本列島という地域の中で熟成された。世界にはさまざまな稲作技術がそれぞれに展開されたが、日本では国づくりの基本として、稲作技術の普及が進んだ。荘園制度の作られた平安時代に日本全体に広がった。6世紀ごろから、すでに日本全体に広がっていた稲作が、洗練された水田稲作として、とくに江戸時代に徹底整備されてゆく。鎖国された環境の中、各藩でこぞって新田開発を行い、水田技術の改良がされ、お米の増産が計られる。稲作によって安定して暮らすという事が出来るようになる。

弥生時代には先端技術だった稲作は、土俗的な民族文化と融合しながら、米信仰を生み出す。主食のコメは日本人の生活を一変させるほどの豊かさをもたらした。その稲作が、日本人というものを変えてゆくものになった。独特の地域形成をもたらすことになる。水というものを通して、人の暮らしが集団として成立する。地域の協力が不可欠な稲作。田んぼや水路を作るという水土事業のために、より大きな集団の力が必要とされてゆく。またその稲作技術が日本の全般の技術力を育むことになる。より優れた稲作をするためには、自然観察力が必要とされる。水のかけ引きひとつで、稲の生育は変わってゆく。里地里山の自然を大きく改変するのではなく、手入れを通して、上手く調和を作り出す。これが日本人の感性を育てる。良い里山が良い田んぼを作る。里山の薪炭林の林が、良い水を作り、田んぼに絞り水を運ぶ。田んぼは特別な肥料を入れることなく、3000年の循環する農業を可能にした。3000年同じ場所で暮らすことが可能になるという意味。美田を残すという意味。ご先祖と、子孫と向き合いながら生きる文化。これが稲作文化なのだろう。

麦を作ることも麦文化というものを形成したはずだ。ところが、麦というものの性質が、永続農業には不向きな作物であったのかもしれない。三圃式農業というものが考えられる。休耕する年を入れ、家畜を放牧する。収量が低く永続性があるというほどには安定しなかったようだ。ヨーロッパは狩猟民族という歴史教科書の説明がある。縄文時代の日本人はやはり狩猟民族的側面がある。あらゆる民族が狩猟採種の時代を経ている。そして、弥生時代からコメ作りによって農耕文化に変化する。ヨーロッパも同じで、狩猟民族の時代があり、麦を作る時代に変わる。麦を選択したヨーロッパの人たちは、領主制のような統治形態が複雑化してゆく。多様でひとくくりにはとらえきれない民族文化を形成してゆくことになる。民族の移動も麦の収量と連作の問題がある。定住する文化がおぼろげなものになる。近代化が早く、民族文化の消滅も一足先であった。そこには、麦を主食に選択するほかなかった、気候と地形と土壌の結果という事をもある。生産性が極めて低く、近代農業に移行するほかなかった。そのことから、プランテーション農業の展開に繋がってゆく。

トウモロコシを選択したインカ文明がやがて行き詰まった原因は、トウモロコシというものの作物的限界というものがあったと言われる。連作の問題、肥料の問題、生産性の問題。日本人がお米を主食に選択できた幸運がある。東洋3000年の水田技術を学ぶことができた有難さがある。遣隋使が一番に学んだものは、稲作の水土技術であったはずだ。宗教や芸術や、政治や学問も学んだのであろうが、それ以上に主食を作る技術を学んだはずだ。中国の稲作農家に住み込んで農業研修生をやった大和人がいたはずだ。そのことは歴史に多くは書かれてはいない。江戸時代のその主食を作る技術が極限まで磨き上げられる。限られた面積で、効率よく主食生産をする技術が完成する。これは、世界でも優れた水田技術である。但し、近代農業技術とは違う技術体系である。この3000年の循環農業の技術を再評価することが、日本人の競争とは別の生き方を生み出すことになると考えている。

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