自給農業の30年
自給農業田んぼ派である。田んぼをやるとなると最高の田んぼをやりたくなる。野菜を作ると言ってもそこそこの気分である。鶏となると今でも急に本気になるので、鶏は別格だ。田んぼが面白いと思うのは、東洋3000年の循環農業だからだ。収奪しない農法の完成。自然に人間の営みが織り込まれてゆく農業。修学院離宮の姿である。日本の文化のかなりの部分が稲作によって生まれ、育まれたもの。日本人の美意識というものも稲作から来ている。美しい日本には必ず田んぼがある。日本人は田んぼにできる所は、一坪の平地であっても田んぼにしようとした。どれほど山の中であっても、わずかな平地を作り田んぼを作った。気候的に稲作の限界を越えた北の地にも田んぼを作ろうとしている。日本教には稲作信仰があるように見える。お米の取れ高が、その藩の力量としてはかられた。加賀100万石。50年前の小学校では日本のお米の収穫量や反収が日本の国力として教えられていた。田んぼは他の作物とは別格の尊い存在であった。
今年欠ノ上の3反の田んぼで1800キロの収穫をした。有機のコメ作りである。一人8000円で120キロのお米が収穫できた。田んぼで働きさえすれば、人間は生きていけるという事になる。自給を志す人間の協働力の成果でもある。あしがら農の会の25年で達成した稲作技術がある。欠ノ上田んぼの条件は足柄平野のなかでは良くない。日照の十分でない谷の14枚に分かれた棚田である。こんな条件でも有機のコメ作りであれば、安定して畝取りできるという事が証明できた。神奈川県の平均収量が500キロ程度である。そこで600キロを超えている。有機農業の優位性を証明できたと思っている。農業者ではない普通の市民が力を併せれば、自力で食糧自給が出来るという事を証明できた。田んぼをやってきて面白いかったことはここにある。日本人が日本の国土で生きていけるという証明である。人間が生きるという事を、自分の手で可能という証明。この根本的課題を証明できるという面白さが田んぼだ。
私は30年前山北の山中で開墾生活を始めた。山の中で自給生活を摸索した。その中で、自給には田んぼを作らなければだめだという事を知った。山の斜面を削って、2畝の田んぼを作った。そこに始まった田んぼが、今の欠ノ上の田んぼにまで繋がっている。水というものが支えてくれる田んぼ。ひたすらの水管理が重要になる有機のコメ作りの技術である。農業技術がいかに大事なものか理解した。農業技術がなければ、倍の労力をかけて、半分の収穫になる。これでは生きていけないことになる。技術を軽視していたのでは、自給農業は出来ない。野菜でも狭い場所で連作可能な土づくりをしなければならないと考えている。循環農業の技術が必要である。農の会全体で4ヘクタールほどの田んぼを耕作しているのではなかろうか。つまり、2畝で一人分と考えれば200人の人の食糧ということになる。もちろんここには新規就農した農家の人の分も入れているのではあるが。
一人の自給を目指し山北で始めた30年前の開墾生活からの始まり、田んぼが多くの人との出会いを作ってくれたのだと感謝する。欠ノ上田んぼに素晴らしい仲間が出来ているのは、田んぼとの向かい方から来ている。本気になって田んぼの耕作に協働したからこそ生まれた関係である。これで責任ある立場としての田んぼを終わる。畝取りしなければ我慢できないという立場を離れる。20年間何処で耕作しても、いつも畝取りの目標を持って耕作してきた。市民が耕作するのだから遊び半分だろう、と思われてはならない。こう考えて田んぼをやってきた。そして試行錯誤の結果、有機農業という当たり前の江戸時代のやり方になった。有機農業は土づくりである。腐植を増やす土づくりだ。緑肥稲作である。手はかかるが、その手をかけることを楽しむ田んぼである。自給農業の総合技術の完成を目指した30年であった。結局のところ、江戸時代のお百姓さんに近づいたという面白い結果になった。