連ドラ「半分、青い」

   

NHKの連続テレビ小説は大抵は見ている。「半分、青い」を今やっている。漫画家になる話である。岐阜の田舎町から、出てきて漫画家になるまでの定番の状況物語だ。漫画家の話という訳で漫画のような話なのだが、あまちゃんほどの飛躍はない。今回は気に入ったというほどのものでもないのだが見ている。漫画を考える前に生きろと教えるところは、そういう事だと思った。モノを作るという大変さのようなものは、わずか表現されているか。この舞台になっている売れっ子漫画家の先生のアトリエが、セツモードセミナーを思い出させる場所なのだ。マンガ家はどこか長沢先生を思い出させるような人物である。一見冷たいような優しい暖かい人だ。3人の弟子がいて、まるでセツの生徒たちのように見えてしまう。ふわふわな感じだ。クロッキーをやる場面があったが、何処で見ていたのかと思うほど感じが出ていた。中庭があり、アトリエがあり、違う階に先生の暮らしている部屋がある。長沢先生の階段を下りてくる登場。あの感じだとわかる。

これを作っている人は長沢先生を知っている人ではないだろうか。セツの生徒なのかもしれないとまで思える時がある。似たようなアトリエがまだほかにもあるのかもしれないが、台詞がセツさんが言いそうなことを語るので何かおかしな気持ちになる。余計なそんなことを思いながら見ている。私は外部の人間だったのだけど、案外によくセツには出入りした。何故だったのだろう。セツさんには私は厚かましくても大丈夫だった。長沢先生には作ったネクタイをプレゼントしたことがある。草木染めをやっていた時に、最高の出来だったから献上したのだが、2年ほどしてあるとき、私はネクタイはしないからと言って返された。私は節さんにネクタイをしてくれという事ではなかったのだが。あの何とも言えない感じは独特だった。私は勝手にセツさんに不思議に近しい感じを抱いていた。長沢先生さんは生徒にはやはり、教師として接していたのだと思う。そういう昔風の姿勢は結構厳格なものがあるようだった。

長沢先生さんは新しがりであった。都会風であったりするところが、むしろ、会津から出てきた上京物語の中の人だ。最先端を気取る地方の青年だったのだと思っている。会津にいた時のモダンボーイの長沢先生はどんなだったのだろう。義の世界の中のセツさんはやはりいたのだと思う。セツモードは今はもうない。あの不思議な場はセツさんがいなくなれば終わりになるのは当然のことだろう。長沢先生が特別な人であったことには変わりがない。絵を描くという事の大切な意味は教えられたように思う。具体的に私の絵をあれこれ言ったことはなかったが、半分青いを見ていると、あんなこと言いそうだな、ああいう事を言葉にせず教えてくれたんだと思うときがある。あの頃は個展ばかりやっていた。必ず見に来てくれた。それがすごく励ましになっていた。長沢先生がいろいろの人も紹介してくれた。春日部洋先生との最初の出会いも、一緒にやられていた、グループ展の時だったようにと思う。

私は半分セツ派とされてきた。絵描きとしての長沢先生とは一番近いような気すらしている。長沢先生は水彩画しかやらなかった。若いときには油絵も描いたとは言われていたが。現場主義であるところも一緒だ。中版全紙にしか絵を描かなかったことも同じである。絵も似ているのだろうか。アマルフィーを描いた傑作は今どうなっているのだろう。セツさんの絵は早い。早く描くのを自慢しているようなところがあった。その速さがはまったのがアマルフィーの絵だ。テレビの漫画のことだ。今の時代絵描きになる話しではドラマにはならない。漫画家になるというのでなければ、今の時代の話には繋がらない。絵を描くという行為が良いご趣味の世界としか認識されていないからだ。それはどうでもいいけれど、半分、青い。には物を作るというという事が、いかなることなのかは示されている。何もないところからひねり出す。結局のところ自分という人間を絞り出すほかない。自分はどうすれば絞り出せる果実に成れるのか。連ドラがこういうところにも話をもって言ってくれれば。

 

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