田んぼを描く
田んぼの空。この空の中を歩きながら、草取りをする。しかも、田んぼは底なし沼のように緩んでいる。恐ろしい場所である。しかし、この実りで自分が生きている事は確かだ。人間が生きるという事が、この田んぼの宇宙にあるような気になる。
下の写真の場所を描いている。田んぼの向こうは柿と栗の畑がある。その木陰に陽だまりガーデンがある。
絵と写真ではまるで違う。人間が見るという事はなかなか複雑である。
今年も田んぼを描き始めた。田んぼが一番美しいのは、田植え3週間後である。まだ水面が見えて、空が田んぼに写るころだ。小田原では丁度この頃梅雨になる。この雨に打たれた濡れ色の田んぼの姿が良いのだ。田んぼは少し上から描かないとならない。水面が見えないからだ。上から見ると田んぼの形が見えるのも面白い。畔の脇に車を停めて描いている。勝手な位置から絵を描けるのは自分の田んぼだからだ。あのイネは分げつがまだ来ていないとか。もう60㎝にもなった戸か。いろいろ思いながら田んぼに移る空を見ている。雲が流れてゆく。雲の間には稲が揺れる。イネの影が縞模様になって流れる。田んぼの地面は様々な表情を見せる。その上に波紋を描く水面が重なる。3重にも4重にも風景は重なり、複雑な混沌とした世界になる。その中をオタマジャクシがうるさく泳いでいる。この視覚的に重層する視覚的なものを、濡れるような、足が沈み込むような、田植えの感覚で見ている。
種籾田んぼ
畔が区切る線は強いものだ。畔の緑の線で形ができる。その形が連なりながら、動きを生み出す。その動きは田んぼの向こうの林に繋がる。そして雲にそのまま抜ける。その抜けた動きが田んぼの水面に写った空に戻ってくる。この永遠に廻り続けるような、時間の動きのようなものを田んぼの複雑な水面を描きながら見ようとしている。それは田んぼが食べ物を作る場所だという事。その食べる人を作るというようなことにまで及ぶ気がする。この美しい場所で働くことで、自分のという人間が少しは洗われてましになれるような気がする。
田んぼの道を作る。この道はみんなで作った道だ。土を運んで農機具が奥まで行けるようにした。大変な土木工事であったが、こうして美しい道になった。その土地に必要なものは美しい。
田んぼには一日3回は行く。行ってしまう。田んぼを見ているのが好きだから。今年は稲の葉っぱに番号を振っている。5番目に出た葉から、6,7,8とマジックで書いてある。イネのは葉だいたい1週間に一枚出る。今8枚目という事は種をまいてから8週間が経ったという事になる。田植えをしたのが5枚目の時だ。田植えから3枚葉が出た。いつもイネを見ていると、7枚目の葉だな。8枚目の葉だと。判別がつくようになる。8枚目なら、葉の幅は10ミリは超えないと。長さもぐんと長く60センチ。葉の色もぐんぐん緑を増してくる。この緑の濃さで土壌の肥料分が分かる。土壌の微生物の状態も想像する。私が田んぼを描くという事はそういう事を含めて田んぼを描いているのだろう。去年の9葉期より、色が浅いなとか。そういうことは絵を描いて居なければわからないに違いない。2度代かきの田んぼと、1度代かきの田んぼでは様子がかなり違う。この様子の違いがどういう違いかわかるのは、良い栽培に向けてやれることは全部やるからだ。
田んぼの生育の違い。
中央の田んぼは田植えをして3日目になる。まだ根付いていない。隣の緑の色濃い田んぼは3本植の田んぼの3週目である。その手前が2本植で、その手前が1本植。一番奥は2本植。田んぼの初期生育は植えた苗の数で違ってくる。こういう違いは見えているわけだが。この違いの意味が分からないと見えたという事ではないのだろう。