美しい久野里地里山協議会
私の住んでいる久野には里地里山を守る活動がある。里地里山の保全活動は、神奈川県による後押しで出来た。先進地区のバス見学から始まった。しかし、現状では神奈川県は活動から手を引いてしまった。何か肩透かしを食らったような気分はいまもある。一緒にやりましょうと言っていた人たちが、やりたいなら協力しますよという事になっている。ところが、小田原市は当初はやらされ気分だったものが、今はむしろ積極的に動き出している。会議でも神奈川県は参加しなくなったが、小田原市はいつも参加してくれる。地域住民が実際の作業はすべてやるという所は当然である。しかし、行政が思いを共にしている事業であるという意識にある事で、活動が活性化しているのだと思う。補助金の問題ではないのだ。小田原市はこの活動を農水省のむらづくり審査会に応募をしてくれた。今日はその審査員の方々が、現地確認に見える。状況はよくわからないが、ともかく田んぼや溜池の活動の説明をさせていただく機会になる。私にとってはまたとない機会である。
やっている活動をむらづくりの新しい形を伝えることができるという事がありがたい。小田原が新規就農には最適な場所であるという事の意味を伝えることが出来れば嬉しい。小田原のような場所にこそ、農業応援団が育つという事を伝えたい。農業応援団が生まれなければ、日本の農業は国際競争力のある地域以外は、放棄されるに違いない。東京に通勤が出来る地域である。しかも市民が利用できる農地がある。大規模農業には不向きな小規模の傾斜地農地であるが故に放棄されてゆく農地。ところがこうした農地は景観の素晴らしい美しい環境にある。消費者を招く小規模農業を行うにはもってこいの場所なのだ。考え方を変えれば、新しい農業のポテンシャルが極めて高い地域である。そのことを、掘り起こしてきたのが里地里山協議会である。地域の人が、新規就農者を支援してくれる組織である。私は20年前に小田原で農業を始めた。私を小田原に呼んでいただけたのが、里地里山協議会の方々である。それから、久野を中心に耕作放棄地の再生に取り組んできた。私の養鶏場自体がごみの投棄場所になっていた場所だ。舟原溜池も崩壊し荒れ地化していた。
あしがら農の会として、利用させてもらっている農地は久野地域には4ヘクタールぐらいある。会所属の7名の新規就農者がここで活動をしている。こうしたことが可能になったのは、里地里山協議会の存在があったからだ。その一つの事例が欠ノ上田んぼである。60アールを管理している。江戸時代初期に開田された田んぼだ。舟原溜池が元治年間という事だから、同時期である。50年前にみかんの畑になった。そして、放棄され荒廃農地化した。それを里地里山協議会が元気回復事業によって、一部を復田をした。その時にあしがら農の会が管理者になり、10年間耕作をしてきた。この市民が行う農業が、農業としても優れたものであることを証明するためにも、本気で稲作に取り組んできた。条件不利の農地であるにもかかわらず、10俵を超える収量を継続して達成している。その記録はこの秋、農村文化協会から出版することになっている。
都市近郊の農地は、都市近郊特有の条件下で耕作放棄されてゆく。中山間地の耕作放棄地とはそれぞれに違う理由がある。いずれにしても、農業としての経済合理性だけでは農地の維持は困難な側面がある。しかし、久野の農地の事例のように、市民が農地の再生に参加することによって、素晴らしい農地に生まれ変わる、可能性が見えてきているのではないだろうか。農業者が営農できなくなった農地を、市民が参加して維持してゆく新しい枠組みが、久野では多数現実化している。東京に通勤をしながら、この活動に参加している人が多数存在している。この活動を知ってあえて小田原を選んで引っ越してきた人も複数存在する。そこから新規就農した人も複数存在する。こうした市民が本気で農地を管理する形が広がればと考えている。その為には、それを地元で支援する、行政も連動した美しい久野里地里山協議会のようなものが必要なのだと思う。