憲法改定一段落か
今年の憲法記念日前後の憲法に関する論議を見ると、当面憲法改定はなさそうという事のようだ。油断はできないが、少し安堵した。アベ政権の足元が揺れ出して、憲法どころではないという事なのだろう。憲法論議そのものが、盛んにおこなわれているとは到底言えない。憲法を変えるという事は、国にとって最も重要な判断である。その判断は徹底した議論の末に行わなければならないものだろう。ところが、アベ政権のやり方は曖昧なまま、9条に自衛隊を控えめに書き加える必要があるという主張だ。9条の本質は変更しない。その上で、すでに社会的に認知されている自衛隊を憲法にも位置付ける必要がある。という主張である。お得意のソフト戦略である。自衛隊の役割が徐々に拡大されてきた。最初は警察予備隊という事で、あくまで警察業務の一部ではあるが、警察では担いきれない部分を担うという事で、朝鮮戦争に伴いアメリカに押し付けられたことである。憲法もアメリカによって作られたから疑問だという意見があるが、自衛隊こそアメリカに強制的に作らされたものだ。アメリカはその時に憲法改定も主張していたのだ。
しかし、当時の日本政府は国民全体に広がる平和国家として歩むという意志の明確さを認めざる得なかった。国民の過半数は戦争にはこりごりだったのだ。憲法改正を決める3分の2の賛成は到底得られる状況ではなかった。また政府の方針からしても、日本が経済立国するためには、世界に対しの謝罪と反省を示す武力放棄以外ない、という事もある。憲法とは何なのかを考えなくてはならない。日本は立憲主義という事になっている。憲法に従って国の運営を行政は行うという事だ。しかし、現実の政府はこの憲法を拡大解釈をして、ある意味憲法違反で法律まで作られている。その判断は内閣法制局というところで恣意的に判断されているといえる状態である。憲法裁判所がないからだ。自衛隊が海外の紛争地域に出動できるという事は、どう考えても憲法違反であろう。自衛隊の存在自体が私は、憲法の拡大解釈の上に存在すると考える。どのような角度から考えてみても、自衛隊の海外派兵は憲法違反である。ところがそれを可能とする安保法制が作られてしまったのだ。憲法をないがしろにした、歪んだ憲法の拡大解釈である。
あくまで自衛隊の海外派兵をしたいから、憲法改定が主張されるのだ。さらなる憲法の拡大解釈が可能になるようにしたいのであろう。何故、自衛のための軍隊が海外に派兵されるのか。本来であればここが議論されなければならない。まともな憲法議論が行われていない。こんな憲法がないがしろにされる状況では、憲法の改定は無意味である。もう日本は立憲主義の国とは言えないのだろうか。すべての国際紛争が巡り巡って日本の安全にかかわるからという理由付けがなされる。つまりあらゆる戦争が日本の安全保障にかかわりがあるという事にされている。自衛隊を海外派兵したいという考え方の不自然さ。同盟国アメリカの要請に従わざる得ないという日本政府の判断。これがある以上、9条に自衛隊が明記されれば、もう普通の軍隊そのものになると考えなければならない。憲法9条はいまやかすかな歯止めなのだ。憲法の歯止めの効果が薄れてきているのは、立憲主義を理解しないアベ政権登場以来明らかなことだ。まずは立憲主義に立つこと。そして憲法裁判所を作ること。
北朝鮮や中国に対するアベ政権のやり方はいかにも古臭い思想に基づいている。近隣諸国はすべて日本に敵対して、日本の権益を奪おうとしているという妄想である。なぜこのような妄想を安倍政権が持つかといえば、日本の経済的優位が失われつつあるからだ。近隣諸国の台頭に怯えているのがアベ政権だ。それは経済至上主義で哲学がないからだ。近隣諸国は敵ではなく仲間だ。本来、最も友好関係を持つべき隣国を敵視する日本政府である。明治政府以来の脱亜入欧のゆがんだ帝国主義思想が今もって日本人の頭を洗脳している。明治政府の教育の結果なのだろう。この時代になっても、アベ夫人のように、森友幼稚園の教育勅語に感銘を受けて感涙してしまう蒙昧がある。中国の悪口を言っていれば、ホッとする日本人が結構いるのだ。西欧に遅れた日本の焦りが、今はアジア諸国に遅れそうな焦りに変わったに過ぎない。競争をやめることだ。