野党にやらしたってだめだろう論

   

自民党はさすがにひどい。内閣支持率は20%台に落ちた。それでも野党への支持がなかなか集まらない。野党はアベ内閣よりももっとひどいだろう。こんなコメントを時々テレビで聞くようになった。野党がだめだというイメージの定着はこういうテレビに出てくる評論家と称する人たちの、誘導でかなりの部分出来上がってゆく。テレビ朝日のセクハラ対応で分かるように、アベ政権にたいして、臆病なくらいの忖度をしているのだ。そうしなければテレビ会社としての経営が出来ないという、内向きの意識であろう。野党を育てるというような報道を作ることも報道の役割ではないのだろうか。報道は権力批判をするという、社会の公器であるという意識がもうない。権力におもねり、その時の潮に乗って流されるだけのようだ。今行われている、安倍政権批判の番組作りも、その安全弁として野党の無能をさりげなく主張して、逃げ道を作っている。

野党だってだめだ。野党に変われば官僚の協力が得られなくなる。本当に国を動かしているのは官僚なのだというように、何かにつけて、野党の能力不足という負の刷り込みが繰り返し行われている。確かに、民主党政権をつぶした官僚である。そしてアベ政権には何故か、献身的に使えている。アベ政権が官僚の扱いに巧みという事なのだろうか。批判しかできない野党というレッテル張。共産党は主張は正しいのだけど、正しいだけでは世の中上手くいかないよ。清濁併せ吞むのが、政治というものだという様な風潮が作り出されている。確かに、国民の政治の選択はどっちを選べば、自分の景気が良くなるかということであろう。自分の得になるだろうかという事が選択判断。だから政府の不正に対して、批判的な投票行動に結びつかない。確かに現実はそんなものだろう。否定はしない。しかし、この得な方の選択は、結局のところ得は権力に集中してゆく結果になる。森友、加計を見ても、権力に近い人ほど得をする。だから、自民党政権が続くのだろう。現世利益の公明党も得な方得な方と選択して、今与党にいる。平和の党などという看板は下ろした方がいい。

自民党も野党も憲法論議はどうしたのかと思う。安倍氏自身があれほど憲法改定を主張しながら、自民党の憲法検討会では、出席して意見すら述べていない。そして、自民党では議長一任という事になった。憲法はそれほど軽いものなのか。今度こそ憲法の議論があるのかと思っていたのに、この国会での一番大切な部分が抜け落ちている。そして、これ以上安倍政権の不正追及を続けるなら解散総選挙だ。このように野党を脅している。国民が不正を選挙の選択にはしないと確信しているのだ。憲法に関する議論がないままおかしなことをやらないか心配でならない。私は平和憲法を守ってくれる政党に政治を任せたい。しかし、それはどうも票には結びつかないようだ。日本の農業が続いてゆく政策を希望する。しかし、それも票には結びつかない。

こうした政治の結果、格差社会が作り出される。格差社会の怖いところは、格差が固定されるという事だ。建前としては自由な競争なのだが、競争の基盤に格差が生まれ、公平な競争が出来なり始めている。50年前は自力で大学に行く人もたくさんいた。私自身の経験でもある。それが今の社会では不可能になっている。今の野党は政権の不正を暴くことが役割になっている。確かにそれも大切なことだ。しかし、今回の忖度事件の事実は別に暴かなくたって、ほとんどの国民は事実をわかっている。それを国民がどう判断して、投票する政党を決めるかが重要になる。悪いことはしているが、悪い奴の方が得をさせてくれる。国民の選択が特になりそうな選択ばかりではどうにもならない。国会で証人喚問をやったところで、空しいばかりである。野党はどうすれば、官僚の忖度行政を切り崩せるかの提案をすべきだ。ソフト独裁と報道の馴れ合い関係をどうすればよいのか。前向きな提案を出してもらいたい。国民はそうした希望を感じる提案を待っている。探しているのだが、今のところ見つからない。どなたかご存知の方がおられたら教えて欲しい。

 

 

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