自給自足の暮らし

   

生きるという事を味わうためには、日々の暮らしを大切にしなければならない。自分の絵にたどり着くためには暮らしから始めるしかなかった。絵をよくするという事はとても難しいことだ。絵という事物があるという事は幸いなことだ。絵は年々上手になりながら、徐々に悪くなってゆく。悪くなることを上手さで補おうとしているのかもしれない。よほどの覚悟がなければ、上手くならないでいられないものだ。工芸であれば、上手いほど良いのだろう。ここが難しいところだ。絵画は工芸品ではなく自分という人間そのものだ。絵を描くことは感覚に動かされる側面が大きい。人間は若いうちの方が感性が優れているのが普通だ。だから、20過ぎたらただの人ではないが、よほどの人だけが感性というものを超えて、だんだん良くなってゆくもののようだ。この時代でもわずかの人だけが、年齢を重ねるに従って絵がすごくなる人がいる。そういう人の生き方を学ぼうと考えた。すると、絵の描き方というより、暮らしというものが違う。日々の暮らしのことを考えざる得なかった。

そこで、一度絵を離れて暮らしを立て直そうと30代後半に考えた。暮らしを変えなければ、自分の絵どころではないと思えたのだ。私の場合、若いころ感性が良かったわけでもない。要するに頭を使い、絵に関する情報をまとめあげて、上手くでっちあげようとしただけだ。そういう情報を工夫して絵をでっちあげるようなやり方が、何もならないのは当然のことだった。絵の世界が衰退したことが、その結論なのだろう。音楽と較べればよく分かる。この50年は絵画の社会的な意味が失われてゆく過程だったようだ。絵画の芸術としての社会的意味は失われてゆくのに、何故絵が好きなのだろう。何故、絵を見て感動するのだろう。何故、絵が描きたくなるのだろうと。あれこれ試行錯誤を続けた様な気がする。そして、徐々に私絵画というものに至った。人間を楽しませるとか、人間に影響を与えるとか、絵画は社会的な意味は失ったが、私自身には重要な絵を描くという行為が残った。この自分と切り離すことのできない、絵を描くという行為を突き詰めてみたいと思うようになった。

日々の暮らしというものを見つめ直すほかなかった。何を食べたかという事と、どんな絵になるのかという事は、密接なものだ。絵を描いている間に昼飯をどうするか。コーヒーは飲むのか。どうもこういう事が、その時に描いている絵に直接的に影響する。満腹で眠くなれば、どういう絵になるかというような生理的なことだ。絵を描くという事は、無意識化しているものを引き出すというそこ面が大きく占める。自分の肉体をどのような状態に置く必要があるか。これから絵を描き行くときに、帰りに牛乳を買ってきてくれと言われただけで、忘れてはいけないという心理で、一日絵が描けなくなったりする。自分を作り出す方法。自分を引き出す方法。坊さんの修行のための暮らし。座禅を組むのに、面倒くさい条件を設定する。朝の明けてくる時間。夕の日の暮れてゆく時間。この時が良いという。気が向いた時ではだめなのだ。しかもそれを習慣化する。日々の暮らしの中に織り込むという事が大切なようだ。

自分が出来ているのは食べ物だ。自給生活をしてみようと考えたのは、そこにあった。物存在としての自分が出来ているのは食べ物によってである。この食べるものを自分の手で作るという事が、自分に至る方法の一つではないかと思った。超スローフードである。それは心地よい暮らしではない。良いものを買って来て食べるというような、甘めの暮らしの方角ではない。まあ、そう思い詰めたわけだ。もちろん正解などない。自分という一度の命をこうして突き詰めることにしたのだ。あれから30年が経った。自分というものが30年で少しは進んだであろうか。それは絵が示している。絵を見ると進んだとは言い切れないと思う。ただ言えることは絵があるおかげで、大したことはない自分というものの前にいる。大したことのない自分の自覚ができた。がっかりさせられるが、まだ諦めていない。わずか進んでいるように思えることもある。進んでいると言えるほどではないが、間違った方向ではなさそうなのだ。ずうーと下って、自分に向ってはいる。わずかとはいえ進められているとすれば、まだ期待はできる。

 

 

 

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