財務次官と報道機関

   

福田財務事務次官によるテレビ朝日の女性記者に対する、下劣な言葉が録音された。聞くのもつらい言葉である。そしてそれを、福田次官は世間に公表されてからも、全部を聞いてもらえればセクハラではないことがわかると主張している。麻生財務大臣は一貫してかばうような姿勢だ。さらに自民党下村議員はその女性記者を犯罪者扱いをした。自民党の長尾敬衆院議員は抗議した女性議員集団に対して、セクハラとは縁遠いかたがたと暴言を吐いた。そして政府は福田氏の処分を行おうとしない。これが女性活躍を政府の目標とする国の実態なのだろうか。女性蔑視は日本の伝統と言われるが、今回の事件はそれだけでは済まない行政の腐敗が推測される事件である。自民党の議員たちの感覚ではこの許してはならない事件の深刻さが理解さえできない。まるで日本が明治政府の時代に戻っているかのようだ。これを正すためには、政権を変える以外にない。腐敗構造をひっくり返して、沈殿している腐敗物を流し去る以外にない。

競争社会の中で弱い立場の人間がどのように扱われているかを考える必要がある。忖度の精神構造と同質のものである。忖度を受け続ける立場の人間たちの感覚がマヒしたのだ。弱い立場の者が、どんな気持ちで取材の努力をしているかを悪用したわけだ。悪用している意識すらないのが、ソフト独裁の意味だ。テレビ朝日によると、1年半も前から、こうしたひどい取材が続けられていたという事のようだ。この女性記者が週刊新潮に録音を持ち込んだ。そのことでテレビ朝日はこの女性記者の行為が、会社の業務として取材した内容を週刊誌に持ち込んだことは、記者として許されないことだとしている。これもまたひどい見解ではないか。会社内部で福田氏の問題を報道すべきと主張したという。テレビ朝日の上司は、我慢しろそれが女性記者の仕事だというレベルの判断しかできなかったのだ。福田氏もひどいが、テレビ朝日はさらにひどい。これが日本という国の倫理観の喪失した競争社会の実態なのかと思うと辛い。

報道機関は若い美人の女性記者を政府の取材に配置する。それが内部に食い込んだ取材をしやすいからだ。こんな政府はまともではないだろう。福田次官は複数回この記者を呼び出し、取材と称した会食。あるいは接待をさせた。女性記者は聞きだしたいことがあるので、喜んで伺いましたという顔をして酒の相手をしながら、取材をしたのだろう。それが報道機関の特ダネをとる取材方法なのだろう。どれほど腐った官僚と政府なのだろう。我慢して福田氏の呼び出しに応じざる得なかった所に付け込んでいる。事件が週刊誌に掲載した途端、財務省の対応は名乗り出られるものなら、名乗り出てみろ。このように財務省も福田氏も名乗り出れないことを予想していたのだ。女性記者は自分の立場を犠牲にしたとしても、何とかこのひどさを公表することこそ、報道の役割と考えたに違いない。週刊新潮に録音テープを持ちこむしかなかった。これはテレビ朝日をまともな会社にするためには必要な行為であろう。

報道機関の取材の実態が表面化した。報道もそれを受ける官僚も政府も、ひどい状態が続いている。日本を動かしている組織が大変な状態になっている。大変な状態であるにもかかわらず、その自覚すらない。明治の昔にもどったような実態である。もしかしたら、政治の世界はこういう暗い因習の続く、世界のままなのであろうか。世間の方は少しづつ改善されてきている。政治とか官僚というような権力を持つ世界にに行けば行くほど、古い体質を温存させているという事か。そして、それに媚びるような忖度報道機関の実態がある。政治と報道の癒着。これがアベ政権のソフト独裁を支えている。ソフト独裁は支配される側が優遇されたいがあまり、差し出して作り出してしまう構造が背景にある。安倍長期政権が、麻生長期大臣が、この明治時代に戻るような陰惨な暗黒政治を復活させているのだ。自民党政権の奢り。長期政権は日本の悪い因習までも復活させている。この問題を矮小化してはならない。

 

 

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