文科省の裏切りの原因
文科省は前川講演問い合わせ問題で、文科省として絶対に守らなければならない教育の自主独立をないがしろにしてしまった。これは、財務省の公文書書き換え問題と同質のアベ政権における行政の自立性の崩壊をうかがわせる。政治家の問い合わせは全く問題がない。政治家はそういう存在と考えなければならない。ただ今回の自民党文教族のやったことは、まさに今のアベ政権のソフト独裁の姿であることは良く分る。そのことは最後にもう一度書く。文科省は最初の記者の質問に対し、愛知県の教育委員会への問い合わせは、文科省が誰の指示もなく行ったと答えていた。外部からの問い合わせはや指摘があったようなことは、すこしも見せなかった。自民党文教族の圧力があったという事は、隠しておくべきことだという理解が存在したのだろう。文科省は自民党と上手く歩調を合わせることが、省としての基本姿勢になっているのだ。それが前川事務次官が、加計学園の設立認可に対して、政府の働きかけがあったと発言したことで、政府からの怒りを買った反省だったのだろう。
前川氏事務次官の文科省としての抵抗は当然のことであった。意見が違うのは当たり前のことである。獣医学部を特例として作ろうという考えに対して、今までの文科省としての判断基準からすれば、おかしなことに見えるはずだ。それでも政府がやろうという特区の考え方で、地方経済の活性化や若者が地方に定着すること。獣医学部の必要性が高まっている状況。結局のところ政治的判断という事になるのだろう。ただその設立組織の理事長が安倍氏の盟友という、ややこしいことが重なったために今もってすっきりしないところがあるという事だろう。安倍氏の申請を知らなかったと強く言い切った安倍氏の態度は、いかにも不自然に見えた。「知らないことにしておくからね。」と約束したのだろう。そのことは一応別である。天下り問題で前川氏は止めることになった。確かそれは初めての天下り問題ではなかったはずだ。大学が補助金をもらうために、文科省の役人の天下りを受ける。あちこちで社会がゆがんでいる。
犯罪になるかどうかは別にして。こういうことは日本の社会では普通に起きていることだ。日本社会は良く言えば思いやりの世界である。真綿で首を締めるという事がある。はっきりとした圧力や金銭を使うのでなく、人間関係を巧みに織り込む。政略結婚というようなものが、昔から繰り返し行われてきた。大企業の運営でもこうした姻戚関係が重視された時代もある。そして、政治家の社会では今でも安倍氏と麻生氏は姻戚関係だあるというようなことになる。しかも、選挙となるとますます、地縁、血縁、同窓、勤務関係、等で、政策とは別の要因で投票先を決める強い傾向にある。この頂点にいるのが安倍晋三氏なのだろう。安倍氏個人はとりわけ優秀な人ではない。しかし、この人の取り巻きとして、日本の利権集団全体がこの人を担ぎ上げている。安倍氏は担がれるにはうってつけの、自分の考えというものを持てない人である。自分の考えに固執しないから、その時に応じての作文を読み上げることに抵抗がない。この構図がたまらなく不愉快なのだ。
自民党文教族と言われる人たちを尊重しなければ、文科省の行政としての仕事が動かない。文科省関連の法案は当然通らないだろう。文科省の出した予算もあれこれ変更させられるだろう。持ちつ持たれつの関係が続いてきた。しかし、前川氏はそれに反発して、逆鱗に触れた。ここで前川氏を苛め抜くことは、アベ政権の官僚全体への脅しである。自分たちに逆らった人間がどういう末路を見るか。官僚はアベ政権の言いなりになっていれば無事である。事勿れ。だから今回の前川問題はアベ政権としては、すでに目的を達し、大成功だという認識であろう。自民党の二人の議員のあの鼻高々な記者会見を見れば、それが良く分かる。必ず安倍親分から恩賞が下されるはずだ。十分脅しは出来たのだ。今回の愛知の教育委員会は、文科省に抵抗を示した。大したものだと思う。今後大概の行政は前川氏はもう呼ばないとするであろう。戦後の日本社会は、こうした因習的な日本社会の悪弊を、取り払おうと進んだ。ところが日本が普通の国になるに従い、また長いものには巻かれろ的社会に先祖がえりを始めているようだ。