大河ドラマは西郷隆盛なのか。

   

NHKの大河ドラマでは西郷隆盛の放映がはじまった。大河ドラマを見ていないので余計なことだが。日本人が明治維新というものに、思い入れが強いという事がわかる。政党名にすら維新が使われる。これは明治政府の革命教育によるものだ。打倒した徳川政権が腐った政権であったかを強調して、革命政権の正当性を主張した明治政府。靖国神社の宮司は徳川家の人だそうで、西郷隆盛の合祀をしたというので、批判されているという。なんとも靖国神社の得体の知れなさがわかる。列強の圧力、文明開化、脱亜入欧、その時代をアジアの鎖国を破られた国が波にもまれながら、生き抜こうとした。そして、列強に飲み込まれないように、富国強兵にひたすら進んだ。その道の果ては、第2次世界大戦までの道のりでもあった。大きくかじ取りを誤ったのである。その間違いを起こした最大の原因は明治政府の大日本帝国建設にあったと私は考えている。ところが、その第2次世界大戦での敗北の原因を明治帝国主義にあるという当たり前の事実を、明治政府に洗脳された日本人には理解できないのではなかろうか。

もし西郷隆盛を大河ドラマとしてやるなら、明治維新の中心人物となり、何故政府を去り、政府に戦いを挑み敗北して死んだのか。革命の理想と、帝国主義の現実を社会科学的視点から見つめてもらいたいものだ。人情的なもので終わりにしてもらいたくない。武力主義というものを人間は乗り越えなければならない。ジャイアント馬場氏の方が、私より強いからといって、その腕力で私を威圧してはならない。私が幼稚園の子供より強いからといって、腕力で従わせてはならない。それは人間の目指すところの倫理だ。国においても、全く同じであって、どれほど小さな国であっても、その尊厳は大国と少しも変わらないものだ。大国が武力によって小国を威圧するようなことはあってはならない。大河ドラマというものは武将の話になりがちである。権力者の闘争ばかりをドラマ化しているのは、人間を力の争いに導くことになりやしないか。子供のゲームも戦いばかりである。人間というものが、力の争いを好むのは分かる。そうであるからこそ、人間の競争心を克服することが人間の歩むべき道ではなかろうか。テレビドラマとは言え、日本の未来のことも少し考えてもらいたいものだ。

人間の歴史の本筋はひたすら生きてきた百姓の中にある。江戸時代においても大半は百姓をはじめとする様々な庶民なのだ。日常がありそこに天災のように明治維新がある。解放と叫んだ明治維新が、実は軍国主義の新たな奴隷である。日清戦争がある。日露戦争がある。太平洋戦争がある。その背後で、根底で、食糧を作り続けたのは百姓である。百姓の視線で時代を見直すべきだ。それが柳田民俗学である。柳田民俗学は戦争協力の歴史観だと、金沢大学の教養学部の歴史の教授から言われたので、余りの教授の偏向に驚いたことがある。私はそのころ、江戸時代の日本の寺院における寺子屋教育について勉強していた。何故、庶民が教育というものに熱心であったのか。寺子屋は江戸のような都市だけではなく、実に辺鄙な地方にまで及んでいた。山梨の山村の向昌院ですら寺小屋が行われていた。江戸時代の日本人の識字率の高さは世界でも屈指なものであった。この教育の浸透というものが、日本が欧米の帝国主義に、また政府の推進した帝国主義に一方的には飲み込まれなかった原因だと考えるべきだ。

国というまとまりも、それ形成する一人一人の人間としての能力ではなかろうか。日本人の米作りの能力は、米作りを行ったどの民族よりも生産性を上げるところにまでに至った。その米作りが家族を作り、一族を作り、部落というものを形成した。その長い歴史の中で、人間は学ぶことが必要だと知ったのだと思う。田植えを上手く行う為には体力だけではない。知恵の積み重ねが大切である。それを記録し、実証を繰り返して技術になる。その総合力を培う事の価値を知っていたのだ。大河ドラマに目くじらを立てる必要はないが、西郷隆盛を考えるとすれば、彼の人間力と言われる背景には学問があるという言ことだ。それは、坂本竜馬にしても同じである。二人の書を見ると良く分かる。実にきれいな字を書く。よほど字を書くことに慣れている。学問の大切さを暗示している。剣術が強いという事からだけ見ても人間は見えない。日本の百姓が創意工夫する力を持っていたという事は、江戸時代も、明治時代も受け継がれていた。明治時代の政治が正しい選択を出来たとしたら、富国強農に進むべきであった。高い教育のある豊かな農のある国づくりを行えば、小さな国であっても、滅ぼされることなく存在できたはずだ。国を守るのは武力ではなく人である。これは武田信玄の言葉だったか。

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