アベ政権の憲法改定の道
安倍氏は憲法改定に熱心である。憲法改定でも9条にある武力否定を覆すというところに熱心である。今の拡大解釈でも足りないというのだから、よほどの武力主義改定と考えねばならない。そのほか4つの付け加えたものがあるようだ。それらも無意味とは言わないが、武力を否定した憲法の本質を変えてしまうというところが、すべてに優先して問題にしなければならない。そして付け加えている4つは、維新の党や公明党を改憲発議に引き込むためである。公明党は看板を教育費削減に変えている。両党とも話はついているとみなければならない。憲法改定を曖昧にごまかすための付け加えと考えて間違いないだろう。問題は9条をどのように考えるかである。安倍氏はこれを自民党総裁としてと断りを入れて発言している。つまり、公務員には憲法を遵守する義務がある。そのように憲法に示されている。そこで遠まわしな身分発言になっているが、総理大臣の年頭所感で憲法改定を述べているのだから、同じことである。憲法をこれほどないがしろにした総理大臣が、拡大解釈を続けている公務員が、このことでは戌年の念頭に猫かぶりである。
伊勢神宮にての安倍総理の年頭所感、憲法改正について「戌(いぬ)年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。国のかたち、理想の姿を示すものが憲法。自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい。」
国民の一人として是非とも、「新しい時代への希望を生み出すような憲法」を提示してもらいたいとこちらからお願いしたい。国のかたち、理想は変化するとしているが、では一体安倍氏の理想の姿としていた、「瑞穂の国美しい日本」はもう忘れてしまったという事なのか。安倍氏にしてみれば、自民党憲法草案を示す為のいい方に過ぎないのだろう。本来、自民党憲法草案を大いに議論すべきところだ。ところがこれを議論すれば総理大臣による革命行動というような、改正ではとても治まらない革命政権樹立という事になる。今の憲法下それに従うことを約束して総理大臣になった人間である。ところが、自民党憲法という全く異質ともいえる、時代錯誤の明治憲法に擬するものを今の時代に、改正案として持ち出してもさすがに無理だ。この認識はまだ残っているようだ。本音と、現実に大きな乖離がある。立場にも矛盾があり、本音においても矛盾がある。そこで、実に中途半端な、お得意の憲法の精神を踏みにじる、改定後の拡大解釈方式を前提にした憲法改定を目論んでいるのだ。自衛隊さえ明記すれば、普通の軍隊まで拡大解釈するだろう。
自衛隊が9条に書き加わり、武力主義の国に実質変わるという事が、新しい時代への希望になると言うのだろうか。自衛隊が普通の軍隊になれば希望に輝く国になるどころか、不安と圧迫の社会が想像される。これは希望というより、安心安全の分野の問題であろう。武力がなければ安心できないという人にとっての安心である。希望というのは、日本が憲法を守る国になるというところにある。民主主義、恒久平和、個人の自由、人権尊重。どれもが希望に満ちている。その希望を文字どおりに実現するのが政府に命じられた責務である。そもそもそうした、憲法の精神に従う気持ちなどない人間が、何故総理大臣になりたいかといえば、その憲法を変えたいからである。日本人の希望を砕く憲法改定と言わざる得ない。憲法を希望というのであれば、憲法を変える前に憲法裁判所を作ることだ。そして、憲法の精神に従い、国を運営することだ。少なくともそれが憲法を変えるまでの姿勢ではないか。その時々に自民党総裁になったり、総理大臣になったりしなければ、つじつまの合わない理由は、安倍氏がデクノボウ総理大臣であるからだ。ご都合によってなんでも演ずるのだ。
憲法を変えるための議論はしてもらいたい。1、総理大臣による一方的な解散権の問題。2、集団的自衛権と憲法9条の関係。3、情報の管理が政府の気ままにおなわれ、様々な行政のかかわる疑惑が浮上した。情報監理と公開について。4、国民一人一人の情報の保護を憲法で保護できるのか。5、憲法裁判所設置について。以上の5点を憲法審査会で議論を始めてもらいたい。しかし、自民党と、公明党と、維新の党と、たぶん希望の党の思惑では、そんなことは議論する気はないだろう。結論ありきの議論では、国民的憲法論議とは到底言えない。