小豆とササゲの話

   

今年は偶然のことで、小豆とササゲを混ぜて蒔いてしまった。ササゲの種を小豆だと思って蒔いてしまった。小豆は種子屋さんで購入した大納言小豆。しかも播種機に両者を入れて蒔いてしまったのだから、ごちゃまぜであった。その結果、小豆とササゲの違いを研究せざる得ないことになった。花が白っぽい黄色が小豆、花がピンクなのがササゲ。草の段階での見た目で言えば、かなり違う。ササゲは蔓性である。小豆は蔓では伸び図全体に小さい。葉っぱや茎に小さな毛のあるのが小豆であった。ササゲは少し葉の緑が濃く、全体に大きくなる。実が付けば違いはさらに明瞭で、ササゲの鞘は長く20㎝にもなる。小豆は10センチほどのものだ。粒の大きさは大納言小豆はササゲより大きかった。赤茶の色も濃かった。しかし、これは品種にもよるから一概には判断材料にはならない。ササゲの方が多収である。小豆の数倍実る。子供のころの記憶で当てにはならないが、山梨では小豆よりササゲの方が多く取れるので、ササゲを作るという話に記憶がある。そして水ようかんを作るのにササゲで我慢したという事があった。

煮てみればよく分かる。粘りが出てあんこになるのが小豆で、赤飯に入れても形が崩れないのがササゲである。と書かれている。ササゲはいくら煮てもあんこのような粘りが出ない。だからササゲで作った水ようかんにはササゲの粒が残っていた記憶がある。実は今はこの記憶が怪しくなっている。ササゲはアフリカの豆で、小豆は昔から東アジアにあった豆という事だ。私は小豆の味が好きだ。あんこが好きという事がある。あの餡子のべたっとした感じは何とも言えない。美味しい餡子は絶品である。餡子を練るのは、職人技と言われている。中学の頃の同級生に和菓子屋さんの息子がいたのだが、彼は中学生だがやっていた。今も、三軒茶屋で和菓子屋を続けている。難しいなら面白いので挑戦したことがある。まあそれなりにはできた。結局は良い小豆が良い餡子を産むのだろう。映画「あん」の樹木希林を思い出す。餡を練りながら、その小豆が吹かれた風を、陽ざしの強さに思いめぐらせる。と語っていた。物を作る極意のようなことだろう。それは良い小豆を育てるときにこそ重要なことだ。その植物の気持ちになるという事は、実に大切なことだ。私には難しいことだが、畑に行ってそんな気にはなる。

今年の正月は、ササゲでお汁粉を作った。さして煮た訳でないが、これがまたなかなかおいしいお汁粉になった。昨日見えた台湾と静岡からのお客さんもそれなりに評価してくれた。子供のころササゲと言っていたものとどうも違うのか。ますます分からなくなった。粘りが少ないと言えばそうとも思えるが、明らかに餡子になっている。7日の新年会では皆に食べてもらおうと思う。昨年の収穫祭ではみんなで作った、沢山の中から選んだ大納言小豆でおはぎを食べさせてもらった。これは確かに絶品であった。今回のササゲも、出来ないはずのあんこが美味しくできている。そうかもしれないと思ったのは、ササゲも、小豆も心を込めて作ったのだ。心をこめなければ、小豆も、ササゲもできるものではない。餡を煮るときに思いをはせるだけではないのだろう。モノを作るという事はすべてに、作る人の気持ちが入るかどうかである。小豆の眼が出たと言って飛び上がって喜んだ思いが、小豆の実りになる。そしてその小豆を餡子にしていただく。それこそがおいしいという意味なのだろう。

食べ物の味というものも考えてみれば不思議なものだ。美味しいという事は本来食べることができるという事だ。安全だという感覚なのだろう。美味しいという事は体に良いという事なのだろう。身体がその本能を失ったので、美味しさに客観評価が必要になった。他人のおいしさなど何の意味もない。私の身体にある食べ物があり、それを美味しいと感じる身体になっているかである。日本で一番おいしいものを毎日食べている。自分の食べるもの心をこめて作っているからだ。自分が食べるために作ったお米が、他の人にもおいしいかということはまた別の話だ。それでいい。私にとってこれ以上のお米はない。これが食べ物を作る喜びである。私のお米はあくまで自給である。私のササゲも素晴らしいものだった。人に食べてもらうために卵を作っていた。手を抜けるものではない。だから、66歳で止めた。みんなの自給こそ最高の物が作れるという事だ。そして、みんなでその美味しさを共有できるのが、みんなの自給農業の喜びである。これほどの幸いはないだろう。

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