農業の困難
雪かとまごう霜のタマネギ畑。
一時バカの壁という本が評判になった。養老先生の本だ。まさに私などバカの壁化していると実感したものだ。年月が立って老人の壁になろうとしている。良く言えば経験主義の頑固である。去年こうだったのだから、間違いないという奴である。そして、昔はこうだったとついつい口に出ている。その馬鹿を補強するために、昔からこの地域ではこういわれているという事を持ち出したりする。大反省をしなければならない。農業は日々刮目してみなければならない。農業の壁は技術にあると考えている。昨日まで正しいと思い込んでいたことが、正しいとは限らないとつくづく思い知る。今年の大豆がその意味で良い経験をした。未だ何故、発芽が悪かった理由はよくわからない。鼠がいる。ハトがいる。種が悪い。蒔き時と天候の影響。などなど想像はしたが、結局今思っているのは、来年は沢山蒔くと言う位だ。苗箱にも撒いておこう。ともかくたくさん作りたくさん植えるほかに。分からないことをわからないままに、対応しなければならないのも農業のようだ。
大豆を引き抜いて見て、根が例年になく、大きく深い。そしてまだ生きていた。実も比較的よくついている。粒も大振りである。これで、発芽が良ければどれほどの豊作か。しかし、かなり減収してしまった。発芽が少なかったから、大株になったという事があるのだろう。後から苗を作り植えたものははっきり小ぶりである。それでも平均20サヤぐらいはついている。大株の方は50サヤ以上である。モノによっては100サヤのものもある。後から植えた苗の方が早く枯れている。根も早く枯れた。畑が使われていなかった新しいところだから良かったのだろうか。大豆は少しもわかってきた感じがしない。小糸在来から品種を変えるという事もあるのだろうか。大豆は品種いよってずいぶん収量が違うようだ。小糸在来はおいしいが収量の少ない豆だ。味が良い方が良いのかもしれないが、余りに収量の少ないのは寂しいことだ。
農業が分からないことの意味は、自然というものが分からないという事なのだろう。自然が分からないのであれば農業のやり甲斐がない。自然という無限にも思える巨大な綜合世界は、一年10年などという、循環の歪みは当然のことだ。この不可思議な世界に自分が生きているという事を理解したい。何でも理解したいという辺りが馬鹿の証拠なのだろうか。分からないことをわからないまま受け入れるという事が上手く行かない。来年多く蒔いて解決すればよいという気にならない。こんなに遅くまで根が生きているとすれば、タマネギの予定を来年は変えなければならないのだろうか。大豆タマネギの2毛作は変えた方が良いのか。タマネギ畑は毎朝凍り付いている。心配でオロオロしている。霜で持ち上がるのではないだろうか。麦も麦踏をしなければならないのだろうか。
農業をしているという事は、諦めるという事だ。それは収穫を明らめるという事である。そして、生きているという事は死ぬという事を明らめるという事になる。必ず訪れる死というものを日々覚悟するという事。この体験の積み重ねることが農業をするという事にはある。体験的に知るという事は、自分という命の意味を知るという事になる。何故種が発芽するのか。これは理屈では誰にでもわかる。小学校の時に、発芽には水分と温度が必要だと教わった。肥料も、光もいらない。ここが大切だと先生に言われた。種に備わっているものがある宇宙。理屈では理解できても、この不思議は体験を繰り返さない限り分かるものではない。発芽しないという失敗を重ねない限り身体が理解できない。これが農業の痛い理解の仕方だ。それでも今年も味噌づくりができる。豊作の年は倍作り、不作の年は半量作る。それでうまく回るのが暮らしである。