殺人事件の増加
神奈川県では恐ろしい大量殺人が続いている。障碍者施設を襲い、殺人を正義と叫んだ、病んだ事件。この事もよく理解できないでいた内に、また海老名で9人もの連続殺人。こちらは自殺願望者を誘い出してはの連続殺人。かつてないような事件が近隣で起きている。殺人事件は減少しているという事を言う人もいるが、ここ数年増加し始めている。最近では殺人事件の半分をかなり超えて尊属殺人である。尊属殺人の増加も社会の弱まった部分の何かを表しているのだろう。殺人は2013年には一日1件以下まで減少した。人口比で言うと10万人あたり、0,3%まで減少した。それが2017年はほぼ1日3件近くになっている。アベ政権になって急増していると言える。10万人あたり、0,7%である。これはドイツと同じくらいなのだそうだ。アメリカはさすがに多くて4%もある。日本は一度かなり減少したものが、また高止まり傾向にある。理由を考えなければならないところである。
神奈川県で起きた2つの大量殺人事件は現代社会の歪みが生み出した殺人。社会的な闇が表面化した事件としなければならない。日本は若年自殺が多いいという事では韓国と双璧とある。若い人が死にたくなるという事の背景には日本人の文化的資質もあるのかもしれない。私自身も若い頃死にたくなったこともあったので、死にたいという事は少しは理解できる。日本には武士道とは死ぬことと見つけたり。などという言葉さえある。〇〇心中などと死が美化されて物語りされることもある。死に誘い込む誘惑が存在する。自ら死を演ずることは高揚したような気分がある。私の場合を正直に書いてしまえば、川に沈むというイメージであった。しかし、今思えばあんな浅い川でおぼれるという事は不可能である。幻想にすぎなかったのだと思う。死の願望も人により様々であろう。
自分というものに絶望して死にたくなった。絶望等という感覚がそもそもちゃんちゃらおかしかったのだが、その時には希望はわずかも感じられなかった。それにしても思い切りが悪くて幸いした。絵を描いて居るという事で救われたという事がある。絵を描くという事が希望の具体化だからだ。絵を描くという事で落ち込んでいたのであろうに、絵を描くことで光も見ていた。親しくしていた美大の友人が前触れなく死んだことも衝撃だった。自己に絶望したものの、やはりどこかには自己実現の希望が残っていたのだろう。すべてがだめではあるが、絵ならダメでもいいじゃん。という逃げ場が残されていた。ダメでもそれがダメと表わされていれば良いという絵画さえあるという事の救い。他人と関係なく絵というものがあった。褒められたり、生活の糧にしたりではなく、絵が自分なのかもしれないという、かすかな思いである。死ぬくらいなら、ダメのままいる方が楽。というくらいの消極的な希望。希望というよりは諦め。
尊属殺人の増加は家族崩壊の予兆であろう。家族に依存しているのが引きこもりなのだろう。依存心が強い分その崩壊が殺人という行動につながる。甘えの社会の中での人間の分断が起きている。その分断は強ければ強いほど、家族というものに依存する。社会からの阻害によって、家族だけの狭い世界が成立する。その依存の維持が不可能になり殺人に至る。社会の矛盾が家族というものに凝縮してくる。社会的価値観の崩壊。殺人という最悪の事態の背景に社会がかなり不安定化してきている。未来の見えにくい社会。共通価値の喪失した社会。共同体としての社会の喪失。自分なりにダメでもいいから生きる。ダメとか良いとかいう圧力から抜けである。ダメだろうが、良かろうが、あくまで自分というもののを十二分に生きるという事が面白い。私はそう思ってやっている。