NHK受信料最高裁判決
私の家にもテレビがある。だからNHKの受信料を取られている。喜んで払うというより、仕方なく取られている感じ。一方的に決められ、選択の余地のない形が不愉快である。朝の連ドラファーンだから、文句も言えないかと我慢している。問題点は公共放送というものの意味にある。これは最高裁判決でも明白に示された。健全な民主主義社会を作り出すための公共放送であるとされた。とはいっても公共放送だから、不偏不党であるなどという事は、妄想である。あり得ないことだ。あらゆる表現が偏っている。当たり前のことだ。最高裁判決であれ、一つの考え方に過ぎない。だから、右にも左にも、上にも下にも、偏りながらバランスをとるという事になる。NHKはその努力はしてはいるが、公共とは言い切れない不満や批判にどう対応しているだろうか。テレビが20世紀社会を産んだともいえる。日本が戦争をしないで来れた一つの原因にテレビがある。これにはNHKも公共として頑張ったと思う。それが籾井前会長の様な、偏った忖度人間の登場によって危うくなったともいえる。
報道機関には批判精神がなければならない。批判精神がなければ、権力の誘導に従う事になる。権力は常に餌を撒いている。勲章などという有難き物すらある。自由でなければ始まらない芸術分野にも、勲章などというもので口をはさんでくるのが権力だ。報道機関は公共の意味と批判精神を、覚悟を決めて持っていなければならない。公共の価値すら疑うような、徹底した反省を繰り返し行う。自民党政権は、人事権で公共を誘導しようとする。勲章の選考委員を権力の意思で選ぶ。憲法の審査を審査委員の任命権で操作する。権力の餌や、誘導から離れたところで、公共という中立的存在をどのように維持できるかである。森友問題では今回会計検査院が明確に不自然であることを指摘した。検査院の人事が政府によって操作されていたらどうだろうか。会計検査院であっても忖度するかもしれない。権力と独立した調査報道が出来る組織が、民主主義社会には必要なのだ。しかも、その組織は経済的な独立性も保たれていなくてはならない。これがNHKの存在の意味なのだろう。
民放テレビが視聴率競争する背景には、高額のスポンサー収入を期待してのことだ。報道機関が企業になっている。自民党が経団連に圧力をかけ、政府批判を行うようなテレビ番組にはスポンサーになるなと脅したことがあった。まあ、こういう馬鹿な自白をしてしまうところが自民党なのでまだ助かる。麻生副総裁の言うように、静かに独裁に導くためには、アベ氏の加計事件のように官僚や審査委員に、無言で忖度をさせればいいと言う事なのだろう。NHKの会長人事には、実におかしなことが起きた。NHKの籾井前会長の右翼的異常さは際立っていた。各理事の就任の際には辞職願を出させていた。番組内容や人事を都合よく動かした。総務大臣の国会答弁では、「放送内容が放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した。」一見法に基づいていることのようだが、こうした発言を繰り返し、報道機関の批判精神を委縮させようというのが総務大臣の意図になる。公平という建前で、批判精神を失わせる。
公共とは権力に対して批判的精神を持つという事だ。決して公平ではないのだ。ここを間違えれば、公共放送ではなく公平を建前とした国営放送になる。権力者はとかく権力者であることを忘れがちなものだ。アベ氏は平然と1月20日までは、盟友加計氏が獣医学部を設立するなど知らなかったと言い放った。20年来加計氏は獣医学部を作ろうとしていたのだ。盟友の気持ちを知らないとすれば、政治家としても、友人としても最低の人間である。証拠はないだろうと、国民をあざ笑う総理大臣を選挙という公平で選択してしまっている。このアベ鵺総理大臣はテレビ報道が作り出したと言える。正しい批判精神を持った調査報道が存在あれば、こういう忖度政治は不可能になる。自分も忖度して、気に入られたいという籾井会長を任命するのであれば、NHKが公共であるとは到底言えなくなる。私は籾井会長のNHKには受信料を払わない権利がある。公共とは言えないからである。最高裁は公共という意味を考えて、判決に対して盛り込んでいるようにも見える。だとしたら籾井会長はないだろう。