日馬富士の暴行事件
またも相撲界で不祥事が起きた、酒を飲んでの横綱日馬富士暴行事件である。日馬富士の相撲は好きだったので残念極まりない。情けないにもほどがある。モンゴル出身力士同士の、懇親の席で起きたことらしい。横綱がビール瓶で左側頭部を殴打し、さらにのしかかり殴打をつづけたらしい。止めに入った力士もいたらしいが跳ね飛ばされたという。頭蓋骨が陥没したというのだから、半端な暴行ではない。2週間の怪我とされているが、1か月の重傷というような大けがと思われる。その席には横綱白鳳、横綱鶴竜、をはじめ、モンゴル出身の力士は多数いた。先月の26日に起きた。その後、貴乃花親方は被害届を出している。相撲協会は11月3日に両親方から事情聴取をしている。そしてもみ消そうとしたと言われても仕方がない処理をした。然し、場所が始まり事件は公になった。何故正しい処置をしなかったのか不思議でならない。今場所に日馬富士が出場していること自体が、理解しがたい。相撲協会の事勿れ体質は何も変わっていない。やはり相撲取りだけで境界を運営するのは無理だ。
繰り返されるモンゴル人横綱の暴行事件である。朝青竜の暴行事件以上にたちが悪い事件だ。まったく相撲というものが神事であるということが理解されていない。相撲の勝ち負けをお金で売り買いしていたという事件が起きた。それでも相撲人気が復活して、相撲界は反省どころかいい気になっていると思われる。横綱暴行事件は今行われている九州場所を取りやめなければならないレベルの問題である。相撲取りが少々乱暴であるのは仕方がないというような、甘い対応をしていれば、もう相撲というものの本質が失われる。と言ってももう本質云々がおかしいのかもしれない。能を見るような気持で、相撲を見る。能は筋書きがあり、所作も決まっている。その舞台に魂を出現させる。相撲は全力を出したぶつかり合いで、人間の魂を土俵に表現する。そのことで神と繋がる芸能である。横綱がまたしてもその神事をけがしている。神事を汚すという事は相撲という別格な芸能を、ただのスポーツにしてしまう。
事件が起きた時に徹底してその原因を絶つことができないと、結局のところさらに悪い形になって事件は再発する。忖度事件も徹底して解明できないとすればさらに悪質になって、それが当たり前のことになる。その歴史的忖度が日本社会の常識になっている。横綱に対する礼儀を欠いたというようなことが想像される。モンゴルの先輩に対して何だという気持ちが爆発したのだろう。酒席とはいえ礼儀を欠くという事が人格を傷つけることになる。多分日馬富士の酒癖は悪かったに違いない。横綱の権威を傷つけられて怒るのは必要なことだ。それが暴力に出ることは、相撲道に生きる見本としての横綱として失格である。当然引退勧告という事になるだろう。この事件を承知していながら、九州場所に出場させた相撲協会の甘さが際立っている。
これがまたモンゴル横綱というところが全く残念だ。モンゴル人への偏見も生まれるかもしれない。モンゴル力士が両国の友好の柱に居て欲しいのに、残念極まりない。スポーツ交流が両国の絆になることが大切なことだ。日本独自の芸能としての相撲の世界にモンゴル人が加わり横綱になる。ただ強いだけでなく、立派な人間であってほしい。モンゴル相撲だって礼節を重んずるはずだ。日本の武道がすべ辛く、精神を重視するのだから、モンゴルでもそうは違わないのではないか。強いことの先にあるものを見たいのだ。強いから横綱になったのだ。何か文句あるかという、驕りが見えてしまうのでは相撲ではない。強ければ強いほど謙虚になる。これでなければ相撲の醍醐味は半減する。負けて潔く。この心があれば、まさか暴力を振るうなどあり得ないことだ。こんなことを期待する方がおかしいというのが現状の相撲の世界である。