総裁批判は卑怯なのか
野田聖子総務大臣が総裁の批判は卑怯だと発言している。苦境に立つ総裁を支えるのが自民党員ではないのかという事のようだ。野田氏は残念ながら総理大臣の器ではないことが分かった。肝心のところが抜けている。苦境に立っているのは自民党総裁ではなく、国民という事だ。政治の私物化が疑われて苦境に立っているという事は、国民が被害者になる可能性がある。まず、これを明らかにするのが大前提であろう。総裁に対して説明責任を果たしてほしいと批判するのは、自民党員の責務である。あの程度の説明で、十分な説明をしたというのは言い逃れそのものだろう。苦境の原因は総裁自らまいた種である。自民党を苦境に陥れたのが安倍総裁を非難できないのであれば、それは独裁政治という事になる。内閣において、大臣はその方針で役割を果たすというのは当たり前のことだが、総理大臣が犯罪行為を疑われたときに、かばうのではすまない。説明責任を早く果たしてくださいと諭すことが、内閣の一員の役割である。まさか、安倍氏が1月20日まで加計獣医学部の申請のことを知らなかったと信じている人などいないだろう。
今わかっている事実は、総裁夫人が森友学園の名誉園長をしていたこと。総裁自身が問題の加計学園の理事長とゴルフや会食を重ねていたこと。自衛隊の日報隠ぺいがあった。それに防衛大臣まで関与した疑いがあるにもかかわらず、安倍氏は罷免しなかった。これだけ取っても党員として批判をしないという訳にはいかないはずだ。党員全体の不利益を安倍氏は増しているのだ。野田氏の評価の高さは思ったことを正直に発言するところではなかったのか。大臣にしてもらい、安倍氏を支持に態度を変えるなど人間としての信頼がおけないないではないか。まさかの豹変である。政治家として、長年活動して来て、1月20日まで安倍氏が知らないかったということをまさか信じているのではあるまい。
私は安倍政権批判を繰り返している。それが日本の為だからと考えている。ところが、良く来るいやがらせコメントには「日本人が日本の総理大臣をくそみそに書くはずがない、中国のスパイだからだ。」などと書かれる。日本人だから、日本の権力の間違いを指摘しないければならないのではないか。それが日本人の権利と義務だと考えている。日本人が中国に対してくそみそに書くことは礼を欠いて居る。権力は常に腐敗する。国民すべてに権力を監視する義務がある。黙っているという事は肯定したことになる。批判することを卑怯とする背景にあるものこそ、自己保身や権力欲の心根が感じられる。アベ政権によって公教育の中で教育勅語が使えるよう閣議決定されたのだ。黙っていたら、日本の子供達が被害者になるのだ。教育勅語が過去の歴史でどのような役割を果たしたのか、明確ではないか。いまさらそれを復活させるは意見を創造しなければならない。人づくり革命を疑わなければならない。
総選挙が行われる。安倍氏は疑惑を逃れるために国会を解散した。憲法を軽視した振る舞いである。国民はこのアベ氏に投票してはまずいのではないか。普通にそのように思うが、どうも国民の判断は少し違うようだ。その方が安倍政権よりも不安にさせる。日本人はどこに向かうのだろうか。このままでは日本は滅ぶに向かう。その大切な選択権が国民に与えられた。ここで判断を間違えば、日本は泥船に乗ることになる。もう日本の岸には戻れないことになる。安倍支持だけはやめてもらいたいものだ。悪いことをしたとして疑われている人を、総理大臣として良しとしてしまえば、政治はさらに忖度で行われるようになるだろう。アベ夫人が名誉校長になるような独善が平然と行われるようになる。アベ夫人は自分の名前をあちこちへの圧力になると考えて、名誉校長になったのだ。その程度のことは誰にでもわかることだ。100万円寄付どころではない貢献である。右翼の、日本会議の詐欺師に対してだ。こんなことを許す国であってはまずいだろう。自民党支持者に正義があるなら、今回は白票であろう。