加計学園問題
加計学園問題など些末な問題だとする主張を流布している人たちがいる。しかしこの問題は日本の社会の深刻な衰退を表している。政治だけでなく、日本の社会の崩壊の兆しが表れたことではないかと恐れている。忖度とか言われ、大したことではないだろうという気分ですべてのことがないがしろに、流されようとしている。安倍氏自身まさかこんなどちらでもいいような問題で、足を引っ張られるとは思いもよらなかったことではないだろうか。獣医学部が四国にできるかできないかは、どちらの正義もある。私は出来た方が良いと考えている。地方が衰退する中、もし獣医系大学が四国にできるとすれば、それはそれで価値があると考えている。問題は権力者がその仲間を優遇したかにとられかねない、進め方にある。安倍氏の友人がやろうとしていることであれば、自分が総理大臣である間は待ってもらいたいぐらい言えなかったかである。法律に違反するとか、違反しないとかの問題ではない。日本は倫理の崩壊に繋がりかねない、権力者が権力行使に無頓着になっている。
上に立つものの顔色を見るのは世間では普通のことである。会社に勤めれば、上司の意向をつねにおし計り、支えるように努力する。組織全体がうまく回るように、陰ひなたなく努力する。これが良い組織であろう。上司は上から全体を把握し、影なる努力も見逃すことなく差配する。そして上に立つものほど、自己犠牲をいとわない。ところが、こうした良い日本の慣習が失われ、露骨な行為が重視される傾向が目立つ。総理大臣が家計学園を優遇してもらいたいと考えているに違いない。このように想像するような人間が周辺に配置される。つまり、都合の良い人間が重用される。安倍さん、加計さんとは友達なのだから、ここは抑えてください。というように上に立つものを諫める人は周辺には存在しないだろう。それを承知する人ばかりが、出世するのを見ているので、損なくじは誰も引かなくなる。これがアベ政治の気持ちの悪いところだ。一見万事滞りなく動いているように見えながら、内実空洞化している。
アベ政治の在り方を、ソフト独裁と呼ぶ。言わずもがなで、ことが進むように仕組む。例えば加計の獣医学部設置を決めたのは、審議会で在り、総理大臣の自分は関与するところではないと、国会で力説していた。そもそも総理大臣は関与してもいいのだ。関与すべき立場なのだ。それをいかにも関与ていないかのように主張する卑劣さである。その審議会の委員を決めたのは誰か。上手く忖度する人間を審議委員にする訳だ。状況をよく分かり、こざかしく動く人間だけを審議委員にしてゆく。苦言を呈するような人間を排除してゆく。その結果、審議委員になりたいというような人間は、アベ政権の気に入る内容をこれ見よがしに、表現する。アベ政権の意向を忖度できる人間であることを誇示してゆく。自民党議員はおおむねこういう人間になった。こうして政府の意向に沿う人ばかりが浮かび上がる結果となり、議論というものが失われたのだろう。すべての問題に賛否は存在する。受動喫煙であれ、死刑廃止であれ、それぞれの人間に判断がある。それを議論し、将来を見据えて決めてゆくのが多数決の民主主義政治である。ところが、ソフト独裁では大いに議論するべき結論が決まっている。審議会が言い訳の組織になる。憲法の解釈ですら、アベ政権の自由になる。自分と同じ結論になるように、人事を動かす。
ソフト独裁の閉鎖社会の実態は、上ばかり見る人たちで出来ている。自由に自立して生きる尊厳を、自ら捨て去る社会。自分がこうであるというより、上がどう考えるかで自分の考えを変えてしまう。前文部事務次官の前川氏は立派な人であるが、何故在任中に頑張れなかったかである。多分頑張れるような風土が失われているのだ。だから、アベ政権がここまでひどい政権であっても、アベを支持した方が、自分には有利だと考える人が多数派なのだ。前川氏も辞めさせられて見て、この危機を自覚したのだろう。危険な時代に日本の社会はある。この危険度すら判断できない社会のようだ。今回の危機は個々人の中にある。もし国民の半数がこの危機に気づけば、日本はソフト独裁から抜け出せる。しかし、このソフトな抑圧は、自分の利益を拒絶しなければ抜け出せない。さて、利己的である人間が主流になった日本人はどうなるのだろう。