字の上達法
字には上手と下手があるとされるが、これは間違いだろう。あるのは良い字と、悪い字である。良い字とは良い人を感じさせる字で、悪い字とはたちの悪そうな人の字ではないか。私の場合は絵や書を長いこと書いてきたから、それなりのごまかしは出来るようになってしまっている。パソコンでたいていのことは書くので字を書くという事はとても少なくなった。たまに書くときは下手に書いて居ることが多い。下手な方が、まだ人の悪さが出ないような気がするからだ。真実字の上手下手と人間は何のつながりもない。いわゆる字が上手な人というのは代書屋さんであろうが、それは活字に近いものだ。そういえば代書屋さんはいまや死語だろう。例えば、相撲字を書く仕事をする人がいる訳だが、そういう字体を練習して書けるようになる訳だ。字を巧みに書くペンキ屋さんを知っている。見ているとまさに職人技である。すらすらと、あの塗りにくいペンキをチビタ刷毛で下書きもなく、明朝体で、ゴシックで仕上げていく。半日見せてもらっていたが、雑談をしながらである。難しいのは上手ではないが、良い字である。
ボールペン文字の添削通信講座というものがある。短期間でバングラディシュ人のローラさんが美文字になったと宣伝していた。たぶん日本語の読み書きが危うくても、文字だけは何とかなるという宣伝なのだろう。中学1年の時に英語を美しく書く教材、ペン習字をやらされた。筆記体練習帳といったような気がする。私はとてもきれいだった。欧米人よりきれいではないかと思った。英語はまるでダメでクラスで正直最下位だったが、ペン習字だけは100点をとれた。真似て美しくなぞることは得意な方だったのだろう。あの時練習したクルクル輪をずらしながら重ねる図形はいまでも上手に書くことが出来る。絵を描くのが好きになることは、大抵の場合なぞって写し取ること自体が好きというところから始まる。写し取る能力は写すべきものが好きだというところから始まる。そっくりにだけ描けるのだが、自分の気持ちを表す絵を描くという事が出来ない生徒もいた。
ボールペン習字を習得したような字を書くという人は、真似る努力をする人であろう。下手な字を書くことを恥とする人の場合も多いのであろう。体面を気にしがちな人ともいえる。たぶん几帳面な人の方であろう。汚い字を平気で書く人は傲慢で無頓着な人かもしれない。人とのかかわりの下手な、偏屈な人かもしれない。美文字の人はある程度枠に入るが、下手な方は多様だと思う。字など読める範囲で実用には十分だと考える人。身体の堅い人は下手な場合が多い様な気がする。字を超えた世界に漂っているような人も居るだろう。これがボールペン習字から、筆文字の書道となると、さらに人が見える。だから書が成立するのだろうが、以前、日展系の書の団体で、大勢が出品しているように見せかけるために、いろいろ書き分けていた人がいた。その書が受賞して地元の新聞社が調べたがその人がいなかったのでバレてしまった。絵も描き分けるぐらい実はたやすいことだ。永山流水彩画法を練習すれば、永山流ぐらい私にもできる。
書の展覧会を見ると、人格まで感じられる書は却って少ないと感じる。代書屋さんが、いろいろ並んでいるような気がしてならない。ここでも、下手は書の内、上手いは書の外ではなかろうか。文字は人を表すというが、筆跡鑑定があるくらいだから、字に癖が出てしまうのは正しいことだと思う。その場合、上手に真似てばかりいるとおかしいことになる。上手な字より、良い字を書きたいものだ。良い人は接していて心洗われる。そういう人間になりたいし、そういう絵や字を描きたいと思って努力している。これはローラさんのように1週間という訳には行かない。一生のことになる。書は井上有一さんが好きだ。それは書が良いという以前に人間がすごいのだ。日本の書を世界の現代美術として評価させた人だ。中川一政さんは字の前で頭が下がった。何しろ墨で自分の名前を書くのに、鉛筆で下書きがあった。さらにその下書から字が大きくはみ出ていた。須田剋太さんの字もすごい。白抜きの書がある。全くの自由だ。私もへたくそな字を描いは見たい。でもへたくそっぽい絵は好きではない。