格差と分断
世界は格差から分断へと進んでいる。トランプ大統領がそういう政策をとろうとしているというより、資本主義の必然として、格差段階から分断の段階に一歩進もうとしていると考えた方が良い。階級ができるという事だ。格差とは同質の人々の中に大きな開きがあることだろう。日本社会であればその同質の社会の中に、質的な差が目立つという事なのだろう。それが分断という社会の様相は、同じ社会の枠内に異質なものとして相容れない階級が生じるという事になる。その異なる階級は自由な交流を閉じ、上層に位置する階級はその上層であることを守るために、下位の階級を分断する。それは、人種であり国家であり、経済力、能力、職業、異質なものすべてに及んでゆく分断である。資本主義の形成段階が終わり、徐々に成熟型に進でいるという事なのだろう。成熟してきた資本が利潤を求め、国家を超え、社会の枠を超え、制御できない暴走を始める。それを何とかしようというのが、アメリカの国家資本主義であろう。
アメリカの一国主義、ヨーロッパでの国家主義の台頭、中国やロシアのような国家の制御の強い国家資本主義は、資本が国を超えて動き出していることへの、恐怖に根差している。アメリカファーストと主張しても、アメリカの為になる企業行為だけを容認することはもう不可能である。トヨタにメキシコ工場を辞めろという事は、アメリカの利益を失う事でもある。つまりアメリカも中国のような、国家資本主義的でありたいという事なのだろうが、そんなことは不可能なことに世界は向かっている。むしろ中国の企業が国の枠をどのように超えてゆくかである。資本は国を超えてしまい、もう国家がコントロールできる段階ではない。もしコントロールするとすれば、それは一国主義ではなく、世界全体を一つの国として見ることにならなければならない。よその国に物を売らない形態であれば、アメリカファーストも利益になるのかもしれないが、資本は消費を求めて、国を超えあらゆるところに入り込もうとする。
資本の競争というものは公平なものではない。巨大なものが弱小のものを飲み込んでゆく。競争の地理的条件が違うものに対して、同じ条件での自由競争だと主張するのは強者のまやかしなのだ。アラスカの農業と、カリフォルニアの農業が自由で公平な競争という訳には行かない。しかし、アラスカは天然資源によって、豊かな土地という事になる。それは国家間でも同じであって、平等とか公平の競争などあり得ない。その前提で、どのように世界が共存できるかを模索する必要がある。これが戦後の世界だったはずだ。日本の場合は国というものを一つの枠にすることが、当面は有効だと考える。日本という島国で一つの文化を共有する地域であれば、その文化を共有価値として育ててゆく。今それが失われ始めていることが、分断の第一歩なのだと思う。それは瑞穂の国の文化だ。稲作を中心にして暮らしを形成する。水土を共有することで、理解し合える文化である。
瑞穂の国の文化を再構築することで、日本人は共有出来る価値観を取り戻すことだ。私たちは25年、みんなで助け合いながら行う田んぼをやってきた。それぞれの特徴を生かしながら、力のあるものは力を出し、物を持つ人に助けられ、知恵のあるものは知恵を出し、根気のあるものは粘り強く、弱いものは助けられながら。一人では続かないことを楽しく続けることができた。人間の出入りはあった訳だが、みんなの田んぼという仕組みは25年続いている。それは、田んぼという瑞穂の国の伝統的文化に支えられたのだと思う。日本の社会には田んぼは大切だという共通認識がかろうじて残っている。田んぼは止めてはならないという気持ちがまだ日本人の中にある。この思いを育み育てることが、分断を阻止することになる。社会が分断するとしても、この共通の思いによって、繋がることで、分かり合える仲間を持つことができる。