人間が幸せになるためのAI

   

人工頭脳が人間の幸せのためのものであってほしい。コンピュターによって情報というものの意味が大きく変わった。社会の成り立ちを大きく変えようとしている。情報革命の真っただ中である。人間が道具を使うようになる。火を使うようになる。農業生産を行うようになる。エネルギー産業革命がおこる。今、暮らしを大きく変化させる情報革命が起きている。裁判で捌かれるなら、大岡越前裁判長が良いのか、コンピューター裁判長が良いのか。大岡裁きは人情が加わる。私が裁かれるなら、コンピューター裁判官にお願いしたい。大岡裁きで私の事情まで配慮してくれたとしても不安がある。立ちしょんべんの冤罪で、地獄の釜茹での刑になる心配をするからである。お上には反逆すべし。あと30年ぐらいすると、コンピューターは人間の能力をすべての分野で凌駕すると予測されている。工業分野、農業分野、医療、介護、裁判など大きく変わるだろう。

コンピューターは過去あるもののすべてを情報化できる。お百姓さんの農の知恵もコツも技術もコンピュターは上回る。絵を描くという事であれば、過去にあった絵は、コンピューターはたちどころに同じものを描けるようになる。テレビではレンブラントと同じに描いたそうだ。家の猫ちゃんをダビンチで描いて、というような希望に簡単に答えれるようになる。それは私が絵を始めた頃から考えていた絵のある意味での結末の姿だ。そう考えて過去にある絵を描くようなことは最初から馬鹿にしてきた。過去にあるようなことをするなら、絵を描きたいとも思わないかった。絵を描くという事はいまだかつてないことをしたいからだった。自分独自のものを描きたいと思ったからだ。過去あるどれほどの絵であれ、自分が今描いている絵の方が自分には面白いからである。

こういう文章を書いていると、次に続く言葉を予測してくれるようになった。この程度の日記なら題名を入れたらば、文章をおおよそ作り出すことも可能なのだろう。星新一版のショートストーリーを描き上げるAIがあるそうだ。私のいままで書いたブログを基に、私が次に書く文章程度ならほぼ書けるのだろう。しかし、私がこれから描くだろう絵はコンピューターにも描けないはずだ。私の絵の描き方は自己否定を重んじているからだ。常にかつてないものを描きたいと考えているからだ。それができないことも現実であるが、自己否定の仕方が日々変わるのだ。肯定というのは正解だから、案外に幅がない。ところが否定の仕方というのは、無限ともいえる多様性がある。何故そういう発想をするかと言えば、良い種が、良い子孫を残すとは考えていないからだ。田んぼで良いと思われる種籾だけを残し続ければ、大きな失敗が起こると考えている。またそういう失敗も経験した。普通の出来の所を種籾にする。

実現したいのは自分である。自分が自分に至るために生きている。失敗をすることこそ自分に近づく道だ。上手く行ったなという経験も大切ではあるが、これは違うという無数の結果が、自分らしきところに近づく手段としては価値ある経験値である。絵を描くというのは、自分の道に進むという事でありたい。描いてみて、どうも違う、こればかりである。この違うの集積の果てに、これならどうだろうかという疑問アリの結論に至るのだ。これが絵というものの魅力である。見るものも、そう出たか。そういうおかしなことを考えるのか。まともじゃないな。こういう共感をするのだ。不完全を不完全として受け取れる魅力である。20世紀になり絵画の世界が、社会的な意味を失って以来、二番煎じで良しとする商業絵画が横行している。コンピューターはこういう需要に、30年後には応えてくれるようになるだろう。何を人間が行うべきことかを明確化してゆくことこそが、情報革命である。情報革命を良いものにするも、最悪のものにするも人間が行うことだ。

 

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