正月は懐かしい
昔の山梨の藤垈の正月を、失われた懐かしいものとして思い出す。子供にとってあれほど楽しく、待ち遠しい時間はなかった。江戸時代菅井真澄という人は30歳で放浪をはじめ、蝦夷地や東北地方の正月を記録している。生涯、旅をつづけ、75歳で死ぬまで、毎年東北の違った正月を体験したという。その正月のことが、民俗学的に絵入りで記録されている。今から60年前には、江戸時代とほとんど変わらないような正月が送られていた。あの至福の感覚を体験できたことは人間として幸いだった。待ち遠しかった正月がいよいよ来るというので、眠い目を無理に開いて、炬燵で除夜の音を聞いていたこと。貧乏な山寺には、鐘はない。鐘楼の礎石だけが残っていた。下の智高寺さんから、鐘の音が昇ってくることが正月がいよいよだという合図だった。
餅つき禁止、除夜の鐘禁止、お屠蘇禁止。日本の正月は風情が無くなる。静かで心温まる正月というものは消えようとしている。人間らしい暮らしが消えてゆく。食中毒、騒音、飲酒運転。自己責任が取れない社会。餅つきは毎年自給祭では行う。一年の稲作の無事を祝っい、餅を搗く。当然の祝い事であるし、やらなければ祝い事にならない。そのお餅が食中毒の原因になる世の中になった。つまらない世の中になったものだ。子供たちが弱くなった。消毒の世の中になって、汚いことに弱くなった。この先人間が無菌室でなければ生きていられないような世界が待っている。汚いに強いも一つの人間力だ。子供の頃から雑菌にまみれて生きて来たことを有難いことだと思う。親が口移しで子供に食べ物を与えることは、虫歯菌の感染の恐れがあるから禁止だそうだ。そんな自治体のパンフレットがあるそうだ。虫歯になればいいのだ。虫歯で死ぬことはない。失うものの大きさに想像力を働かせるべきだ。
歯は死ぬまで使えればいいだけのことだ。虫歯菌が親から子供に感染するのはいいことだ。虫歯菌と同様に様々な免疫力も親から子供に移行する。すべての動物はそうして生きてきたのだ。汚いはきれい、なのだ。ウイルス排除の論理は危険を増すばかりだ。異質なものに接することで、個は明確になる。自分にないもの、受け入れがたいものを、許容してゆく能力こそ、動物らしい、人間らしい、生命らしい能力である。それが免疫力だ。子供の頃少々お腹が痛くなることぐらい、避けて通らない方が良い。虫歯も同様だ。その限度を見極めるのが親ではないか。衛生観念がおかしくなり、一切の菌を寄せ付けないことが親の役割と考える人が増えている。先日黒バナナ健康法を話したら、そんな不衛生なものを食べて健康になれるのは笹村ぐらいだと言われた。おかげで黒くなったただ同然のバナナが買えるのでありがたい訳だが。
食い物ぐらいならまだいい。除夜の鐘がおかしいとなると、もう社会というものが成立していない。一年に一度お寺の鐘が夜中まで鳴って迷惑という暮らし。鐘の音の風情が、一年一度の除夜の鐘が良いものだと感じられない社会。これは宗教ではない。日本人の暮らしが失なわれ始めている証し。稲作農業を失ったがためではないか。まともな暮らしというものが希薄になった。いつの時代でも、除夜の鐘など要らないという人はいたはずだ。しかし、除夜の鐘を騒音とは思わないで、仕方がないで受け入れただろう。正月というものが無くなり、ハロインのかぼちゃである。商戦に踊らされて、混乱を極める暮らし。子供の頃からお屠蘇というものを飲んだ。子供がお酒を飲んではいけないというのに、お屠蘇だけは許された。たぶん裁判官の家の子供でもお屠蘇は許されただろう。社会の風習というものはそのように法律を超えたものだ。