水彩人石川展始まる
会場の白山市市民工房 「うるわし」正面玄関 松任駅前にある。
入った吹き抜けのロビーに続いて、ギャラリーがある
会場入り口 水彩人の大看板が入口にある。
受付の様子 絵葉書が並んでいる。見に来てくれた人で買ってくれる人が多いい。
水彩人の画集も置かれている。
水彩人石川展が始まる。なかなか魅力的な作品展になった。1点、一点の作品がとても見やすい。東京都美術館の本展の会場では見えにくかった細部までよくわかる。会場の光が良いのだろう。作者の工夫や意図がくっきりと出てきた。自画自賛かもしれないが、水彩画のこういう展覧会が開きたかったのかと納得したところがある。夜は絵の話が十分にできた。仲間がいるということはありがたいことだ。松波さんから絵に関して、思いもかけない感想が聞けた。作画意図があって、絵を作っているというのだ。これは予想外のことだった。私としては作画から離れられた絵だと思っていた。その場所を選んだ時も、絵を描いているときも、田んぼの観察の続きのような気分で、自分の田んぼを描いていた。絵をつくろうどころか、ただ茫然と描きとめたというだけの絵。ところがそのことによってむしろ絵作りのようなものが表れてきたという結果。もう一度よく見てみたい。
スペースは3つに分かれている。右側の部屋
やはり、松波さんの指摘は正しいようだ。自分の内部に溜まった、どうしようもない学習結果がこういう形で立ち現れたということになる。今まで学んできたものが、どれほどの悪癖になっているのかと思うと、情けないことになる。さてどうするか。絵を描くということは自己否定するということ。これができていないということ。この考えもわかりにくいとはいえる。ゆっくり考えなければ。自分の悪癖を捨てたと思うと心の奥底、根底に横たわるどうしようもない学習が出てくる。そうやって人間はできてくる生き物のだから仕方がないことかもしれないものが作り出す自分、それを飾る学習。多分修行というものはそういう学習したなにかを捨て去るということなのだろう。本来無一物。無一物ということはしゃべれないことになる。言葉がないのだから、思考することもできない。とすれば、拭い去って拭い去って、ある大切な何かに立ち至るということのほうが、自然なことになる。絵で最も大切なものとは何か。捨てなければいけないものと、捨ててはいけないもの。
左側の部屋
私の絵が見える。展覧会をやることはこうして自分を洗いなおすことになる。脱いでも脱いでも脱ぎきれない、目を曇らせている自分を作っているもの。
受付から見える中央の部屋