断捨離ではなく生前整理

   

生きている内に身辺の整理をしなくてはならない。断捨離ではなく生前整理と呼ぶことにした。生前葬がご挨拶なら、生前整理は身支度である。要するに遺品整理を人任せにしないという事である。せめて寅さんのような空カバン一つであの世には旅立ちたいと思っている。絵は徐々に整理の方向がついてきたのだが、今度は本である。まずは本棚一つぐらいにまで減らすのが目標である。まだ本は読みたいので少しは残すつもりだ。必要な図鑑の類も残して置きたい。調べるにはついインターネットで調べることが多いいのだが、やはり図鑑で見るというのは楽しみである。開く可能性が少なくなった本は捨てる以外にない。読みたくてとって置いた本ばかりなので、もったいなくてできないことなので、ブックオフに頼むことにした。25箱を依頼したが、一回は19箱までだそうだ。昨日佐川急便が取りに来てくれた。もう一回15箱を頼んだ。

本来無一物という事がある。禅に生きるものはこうあるべきだということになっている。新参者の慧能の主張であった。最上位の僧の主張の否定として言われた言葉とされている。一種皮肉な反骨精神の主張であったが、今ではそれが禅の一つのありようとして言われることが多いい。僧侶が富裕層になるようなおかしな檀家制度へ、姿勢を正す修行の在り方として江戸時代に広まったのだろう。描いた絵をすべて捨てるべきという事なのだろう。本がなければ安心できなかった。本を読むことで自分の中に世界を作ってきた。本来自分自身の中に探るべきものを、本を通して学ぶことで安心しようとした。絵に関する本も山のようになった。画集もすごい量である。今回その大半を整理した。農業関係、養鶏関係も大半整理した。それでも井伏鱒二全集、フランスで買ったマチスの画集は残した。捨てきれない本は一応第2弾の整理分として本箱1とつに入るだけは残しても良いルールにした。これ以上整理は今回できなかった。

それでもずいぶんのものを減らすことができた。清々した。必要なものだけを残してある。木工とか、楽器作りとか、篆刻とか、染色とか、は残してずいぶん場所をとっている。これは今現在使っているのだから、どうにもならない。筆もすごい量ある。しかしこういうものはネットですべて販売できるものだ。ネットで買ったものが多いいのだから、最後の段階でネットで整理がつくだろう。この際油彩画関連は廃棄した。今迷っているのはイーゼルである。良いイーゼルだが使う人はいるだろうか。集めた壺などはどこかの時点で欲しい人に差し上げて整理できるだろう。今はクースづくりに使っているので整理ができない。もちろん中のお酒はぜんぶ自分の腹の中に整理したい。他の諸々は制作が出来なくなり次第、差し上げるつもりだ。

人がまだ使いたいような価値あるものは、残してもいつでも整理がつくから今整理しないでも大丈夫だ。土地とか家もどこかで整理しなければならない訳だが、これも世の中に欲しい人がいるようであれば、最後まで使わしてもらえるだろう。まだカバン一つの軽さには程遠い。こうしたネット上のものはどう残るのだろうか。ホームページを作りそこに残しているのだが、そのホームページは費用さえ払えば、100年とか残してくれるものなのだろうか。私の絵もどこかで残しても良いと考える絵の写真は撮り、ホームページに整理しようと考えている。今回多くの人から頂いた画集を整理させてもらった。個人の記録など残せるものではない。叔父の草家人の作品集は残した。明治天皇像を明治神宮に残したとき安心した。私はそういう意味では作品は残すほどのものだとは思えない。この後世の中が悪くなるだろうから、生き抜く1事例にはなると思うぐらいだ。

 

 

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