これからのこと
世界の情勢も混沌としてきた。日本の政治状況も、国民が選択した静かな独裁政治が始まっていると考えなければならない。悲しいことだが未来に対して希望が持てない。悲観的にならざる得ない。その半分は自分の年齢のことがあるのかもしれない。これからというよりどう終わるかという方向に意識が行くことになる。それでも、自分なりの展望は持ちたいものだ。あと3年、3回は田んぼをやりたいと思っている。身体次第であるが、今のところ大丈夫そうである。何故3回やりたいかというと、田んぼのことが良く分からないからである。もう28年も田んぼをやってきた。その都度研究と思い、全力を傾けて田んぼのことを考えてきたつもりだ。ところが、いまだ分からない事ばかりである。田んぼの奥深さには驚くばかりである。畑もわからないと言えばわからないのだが、畑の分からないは自然というものが分からないという事に近い。自然という無限のものが分からないは当然である。
田んぼは研究室のテーブルの上のような感じがする。条件が限定で来て、整えて考えることが、かなりの範囲で出来るような気がしてしまう。なんとなく今一歩という感じが何時もしている。もう少しやれば、分かるのではないかという希望を抱かせる。田んぼは希望である。希望であるから、あと3回だけは挑戦させてもらおうと考えている。分かるという事はどういうことなのだろうか。田んぼが分かったからと言って何なのだろう。私の分かるは誰かの役に立つほどのことでもない。田んぼはそれぞれやる人が分からなければ始まらない。私のやり方は、その場所の個性を探り、その場所に合わせた方法を探求しているだけだ。他の場所でやるとすればまたその場所に合わせた方法を考えるようなことだ。たぶんそんなやり方が日本人の暮らしだったのだろう。田んぼの技術は一子相伝のようなものだ。それでも、他でもいくらかの参考にはなるかもしれない。気付いたことだけは記録を残して置きたいと思う。
絵のことである。絵の方は描ける間は続けるつもりだ。少し自分に近づいている感がある。絵が衰えても仕方がない訳だが、少しづつ前進している。これは幸運である。間違っても仕方がない道であったが、幸い、自分に向う事が出来始めた。1か月半ぶりに絵を描いた。水彩人の準備に入ってから、田んぼの一段落まで絵を描くことはなかった。久しぶりで書いたものが道であろうかと、今目の前に於いて眺めている。果たして前進しているのか、新しいものは出て来たか。何か分かったことはあるのか。ここでも私の分かるは、私だけのことである。生きるという事はそういう寂しいことなのかもしれない。それぞれに生きてそれぞれの分かるを味わい。それで終わる。今後目が衰え、色の判別が出来なくなり、視界もぼやけてくると思っている。それまで何年あるのかはわからないが、自分の絵だけはやれる限りやってみるつもりだ。
何か意味あることがこの世にあるかと言えば、科学である。芸術である。田んぼは科学だと思っている。絵は芸術だと思っている。この2つは人類にとって意味あることだと思ってきた。どちらも徹底して個人の中のことに切り込むことで、実は人類共通になことになるという思いである。競争して、勝ち抜きお金を得るという事は、敗者を作り格差を大きくするという事になる。それは人類という全体で見れば、滅亡への道になる。しかし、人間というものの浅ましい本性を考えると、希望は持てない。そうであれば、心有るものが、能力主義の競争に巻き込まれない逃げ場を見つけること。考えること、作ること。やはり、江戸時代の自給的な循環型社会に希望はあるのだろう。落ち込むとこまで落ち込めば、もう一度そこに希望を見出す人が出てくるかもしれない。まあ、自給自足体験も、その時の参考に少しはなるのかもしれない。