田んぼという不明に進む
初めて自分の田んぼを描いている。毎日3回は見ている場所を、6年間経って初めて描いて見たくなった。沼代の田んぼを描いている内に、田んぼの美しに気づいたようだ。田んぼを描くうえで大切なことがいくつかある。描く前に何を描くかが分からなければならないという事だ。ここで考えていることは分かるという言葉である。言葉は絵とは違う能力があって、同時に矛盾していることを含むことができる。例えば花の美しさを描くという事で、美しさの矛盾も含んでいる。人それぞれに美しさは違うし、人間と犬では美しの観念はかけ離れているだろう。その多様で複雑な美しさというものを、言葉は矛盾なく、全体として意味することができる。この花は汚いという人と、この花こそきれいだという人がいることを前提として、それを包括的に、花の美しを描くという言葉で、花のグロテスクな一面とか、色彩の鮮やかさとか、細部の構成の見事さとか、それぞれが感じる多様性を含み込んで、実は花の醜さを掘り下げていることが、美しさを描くという事になることすらある。という意味を暗示する。
言葉は規定しなければ、すり合わせが本当には出来ないのだが、言葉の曖昧さを含み込むことで、意思の伝達のツールとして優れたものになっている側面がある。互いに美しいが逆のことを意味していることを確認しながら、その先の話をするために、目をつぶってというか、差異を了解しながら、肝心な話を進めることまで、言葉は可能である。美しくて醜いというようなことを、言葉はただの美しいで表現してもいい。すごい不足である。不足を承知で利用している。だから、話の通ずる人と、通じない人が現れる。絵を描くことで考えてみると、何を描くかは明確にわかっていなければ、絵を描いても意味がないということだ。そして、このことは描くべき真実がある予感はして、実はわかっていないという前提なのだ。分からないから、分かろうとして絵を描く。やはりこういう屈折した意味で何を描くのかはわかっているのだ。少しややこしいが、絵を描くことを言葉で言えば不明をわかるというしかない。
分からないという事を、不明に入り込み分かるように説明する。ここに重大な何かがあるという事を示すのが絵だともいえる。問題の在りかの指摘である。ここにより大きな問題が存在するという事を証明する。この何か意味ある事がここにはあるという感覚のようなものを、その感覚のままに表現しようとする。絵で分かるという事は、結論を探すというようなことではなく、問題の重要性の暗示するというようなことなのだろう。そう言い切ると、これまた意味が半分である。見えているという事の重要性がここに加わる。見えているすべては言葉にすることは出来ない。私はその不明に向き合い絵を描いて居る。それは妄想なのかもしれない。しかし、その幻想のようなものに、最大の問題が存在していることを感ずる。この確実に見えている幻想は、私には分かっていることだと思う。と同時に、全く分からないが見えている不思議である。
最近描いた田んぼの8枚の絵がある。8枚を同じところで描いたのだが、その8枚がまるで違う絵である。違うのに同じなのだ。何故こうなるのかが分からない。結局心に従う結果そうなった。その日の気分である。田んぼを描いていて、やっと気持ちが解けてきたことを感じた。大震災以来、絵を描くという事が暗い想念に覆われていた。絵を描く気になれない時期も1年ほどあった。絵を描き始めると、押し寄せる津波と、失われた命のことがどうしても浮かんできた。メルトダウンした原発のことが頭から離れない状態であった。するとすべてが無意味に感じられ、絵を描く気持ちが萎えた。田んぼを描いて居て、そこからいつの間にか抜け出ていたことに気づいた。5年が経ち春が来たことに喜べている。どこかに納まってきたようだ。助かったのだが、思えば薄情なことだ。