自給生活のつもりで
自給生活をしたいとたぶん子供の頃から考えていたと思う。それはロビンソンクルソーや、15少年漂流記を読んだ影響がある。それから、探検記をいろいろ読み漁った。ヘディンを読んでゴビ砂漠に憧れた。それを山梨の山中の山寺で、自給生活をしている中で読んだ。子供心に極限生活というものを生々しい実感を伴うものとして受け止めていた。祖父は、昔の僧侶は葬式などしないで、自給自足で暮らしたという事を、覚えているだけで3回説明をした。あまり説明をするような人ではなかったので記憶に強く残った。そして草取りをやらされた。私としては、木の上に小屋を作ったり、石を積んで砦を作る。穴を掘ってその中に寝てみる。山の中をでたらめに歩く。川で魚を取る。山で食べれるものを見つける。くくり罠でウサギを捕まえる。そういう自給生活に興味があったのだが、遊びを止めさせられ、農作業に駆り出されることばかり多かった。それでも農作業が嫌いにはならなかった。おばあさんが毎日畑の観察を怠らない人で、草はどのように抜くのが一番だとか考えている人だったからだ。
その後、東京暮らしが中心になったのだが、鶏を世田谷のビルの屋上で100羽飼っていたのだから、自給生活願望から離れたわけではなかった。いつか山の中で暮らしてみたいという気持ちは持ち続けた。中学生の時には房総に土地探しに行ったことがあった。自然の中で冒険生活をしたかった。しかし、そういう事と自分がどう生きてゆくのかという事は、かけ離れていて結びつかなかった。自分の将来の暮らしというものは観念的にしか考えていなかった。そのころも絵を描いていたのだが、絵を描く職業という事も想像も出来なかった。何者にかになるという事ばかり考えていたのだが、やりたいことを実際にやるという事が、職業という形では続けて考えられなかった。好きなことしかできないという事を、好きなことばかりやっていて気付いた。会社に勤務するという事は自分には無理というか、合っていない事だけは分かった。好きな絵を描くという事に専念するしかないと思って、フランスに行くことにした。
テレビなどでプロフェッショナルという事がもてはやされる。農業でも取り上げるのは、特殊な成功事例である。私の養鶏場もその事例とされて、何度か紹介された事はあった。しかし、職業的側面より、そうでない仕事の方こそ面白い。卵の売り方より、新しい鶏種の作出が面白い。一文にもならないが、やりたくてやっている大切な仕事もたくさんある。米作りがまずそうである。日本の食糧自給をささえ、日本の国柄を守っている。暮らしが成り立たないからと言って、職業にはならないからと言って、継続しようとする人がいる。それはプロフェッショナルの観点から言えば、馬鹿げたことになるのだろう。国際競争力ある農業に、気を利かして転換した人が優れた農業のプロフェッショナルとされるのだろう。
絵を描くことで生計を立てる、という考えが湧いてこなかった。ともかく好きなふりをして、絵を描いて見ようというぐらいだ。今も同じようなものだ。いい加減なものである。絵描きになるつもりをしたのだ。先行きがわからないので振りをしてみるしかなかった。何か行動していなければいられなかった。焦りもあったから、絵ばかり描いて来た気がする。絵を描いていると仕事をしたという気になる。所がお金になる訳ではない。絵を描くという職業に直面した時代もあった。年に5回も個展は開いた。自分なりに努力はしたが、これは結局ダメだった。自分の絵を売るという行為が耐えがたかった。自分の絵を値上がりするとか、お部屋にひとついかがですかとか、さすがに恥ずかしい。商業絵画の時代に、私絵画を描いているのだから、職業になるはずもないと気づいた。全ては振りをするところから始まったことだったが、そのままが自分の生き方になったようだ。今は自給生活の振りをしているのだろうか。絵描きの振りをしているのだろうか。