報道の自由
国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が19日、暫定の調査結果を発表した。「日本の報道の独立性は重大な脅威に直面している」として、メディアの独立性保護や国民の知る権利促進のための対策を講じるよう政府に求めた。
日本の報道の自由が委縮していると、国連の特別報告者が調査結果を示した。たぶん多くの日本人がそれほどでもないと感じているような気がする。そして、国連は余計なことを、また言いやがってという感じの受け止め方が多そうな気がする。自由の制限は不自由と感じる人以外には感じられない。言ってみれば、産経新聞は全く自由に制限なく報道が出来ていると感じているだろう。政府の広報活動のような報道姿勢であれば、何の制限も不自由も感じていないはずだ。日本人の多数が政府の報道規制に、強い疑問を感じなくなって来ている気がしている。それは日本人がすでに萎縮をしている結果と思われる。団塊の世代までの日本人は敗戦後、全てを0からやり直すつもりで、挑戦的な心境で生きるほかなかった。しかし、一定の生活が安定した高度成長期以降、挑戦する心が失われ始めた。そこで起きた格差と貧困の社会。自分の状況を守ろうという意識になって不思議はない。目標を何か未知へ挑戦するという姿勢を持ちえない。長い物には巻かれよ。他人のことどころではない心境で生きている。
次に起こることは、ネットの制限ではなかろうか。テレビ報道はすでに顔色報道になった。あまり本当のことを言わないのが当たり前。ネットにもテレビが登場して、そこでの情報に期待するものが増えるはずだ。特に反政府的な情報はネットには溢れている。そこで何らかの方法で、ネットでの制限が始まる気がする。それも見える形ではなく、自粛させるやり方である。そんなことをしていると、社会で損な扱いを受ける可能性があると意識させる。まずは政府としては、ネット情報を収集しているところだろう。ビックデーターとかいうやり方かもしれない。テロリストの摘発という理由かもしれない。注意人物一覧のようなものを作る。そして、特定された注意人物には圧力がかかるように、次なる手段が講じられるだろう。その圧力は、見えない形である。ヘイトスピーチやネトウヨを制限するという名目で、情報収集から圧力へ進むいう事になりそうだ。そして、暗にあなたは監視対象です。子供の就職には影響しますよというような雰囲気による圧力。多分そういう見えない陰湿なやり方が行われる気がする。
もうそんなややこしいことにはかかわりたくない。どうでもいいと言うことだろう。保守的気分の蔓延。どのように個人の小さな既得権を守ってゆくか。どうやって自分が上層階層に割り込んでゆくかが、最近の日本人の主目的になっているように見える。だから、私への批判も、上層階層に割り込めなかった僻みという判断されることが多いい。報道は批判精神を失い、問題意識を持てなくなっている。今あるものをぶち壊して、次なるものを作ろうというような、革命的な精神は失われつつある。こういう社会になれば必然のことかもしれない。守りに入った人間は権力を畏れる。問題意識のない報道など、百害あって一利なしである。たぶん国連の心配するように、政府が弾圧をするから報道の自由が阻害されているというのではなく、日本らしく真綿で首を絞められているのだ。報道自身の用心深さが、問題意識のような厄介なものに、気付かぬ世界が広がり始めている。こんな分析は被害妄想だと考えられればいいのだが、怪しい状況が広がっている。