水彩画と鉛筆下描き

   

第19回 水彩人展 金田 美智子 「窓辺のつどい」

作者にたいして、この絵を見て春の絵とつい話した。頓珍漢の話になったのだが、明るい兆しの絵だと思った。美しいものを見たと思った。

水彩画を見るとき鉛筆線があるようでは、水彩画を理解していないと言わざる得ない。水彩人で鉛筆線が気になる作品を拾ってみたら、全部の中で30点ほどあった。どうかなと思うのを入れると、50点になった。水彩画には鉛筆線の下書きが残っていることがよくある。水彩画に鉛筆線があるのは、水墨画や書を描くときに鉛筆の下書きから始めるのと同じことになる。水彩画というものは透明な着色である。下書の鉛筆線は最後まで残る。色彩を壊していることになる。紙の白さの塗り残しでも同じことがある。鉛筆線も紙の白さも美しいものだ。然しそれが絵画として取り込まれるまでは、それはモノとしての美しさである。鉛筆線が表現ではなく下描きであれば、それはモノである。紙の塗り残しも、絵画として考えられたものであれば、それは色彩の白になる。所が回りを白く残しているのは、マットのような効果でそこはモノなのだ。

水彩画に残る鉛筆線が意味の説明のため残っているとすれば、それはモノであり絵画ではない。絵画に置いては意味を説明する線など邪魔なだけだ。絵画は状況説明のためのイラストではない。まして水彩画では透明な絵の具の美しさが身上なのだ。その透明感を汚し、色彩の響き合いを邪魔する鉛筆線などあってはならない。こんな基本的なことすら感じられないで水彩画を描いているなどと恥ずかしいことだと思わなければならない。色彩の事だけでない、筆触を阻害する。だから水墨画で鉛筆の下書きから始めない。書でも鉛筆の下書きから始めないの。それは当たり前すぎて説明もいらないことだろう。水彩画も全く同じことだ。字を描くときに下描きの鉛筆線をたどるような気持ちが残ると、線に心が籠らないのだ。水墨画の自由な表現においては、筆の勢いが大きな要素である。その筆触を鉛筆線は阻害している。

鉛筆で下描きするという事が一般化したのは、2つの理由が考えられる。水彩画を教える人には、油絵を中心に描く人が多いい。油彩画では下描きは描く経過で消えてしまうので、木炭の下書きをフィキサチーフで止めてから始めるのが一般的だ。そのため、水彩画を油彩画の人が描くときに、いきなり色彩で始めることが難しい。そこで鉛筆でまず下描きをさせる。それがいつの間にか水彩画の描き方として普及してしまった。もう一つは絵画としての水彩画ではなく、スケッチにおいて水彩画材を利用するという事がある。これはあくまでスケッチであって、絵画としての水彩画とは違う。スケッチは現場でのメモである。その情景を記憶する材料だ。それを制作に生かすかどうかは別にして、旅の思い出のスケッチというものだ。素早く、その情景をメモするために、線描で描き、淡彩で着色をする。スケッチの場合、周辺が白く紙が残ることが多いい。回りはモノとしての白である。いわばマットの役割になる。

鉛筆線は癖になっている。もし、水彩画の表現というものに気づいて、鉛筆線を止めようと考えたのであれば、下書を水彩鉛筆に変えるだけで良い。描いている内に消えてしまう。又最後まで残ったとしてもその段階でも消える。その内鉛筆の線が絵を汚しているという事に気づくかもしれない。そうなれば、もう下描きをする必要がなくなる。そうなればいつの間にか後で邪魔にならない、グレー系の色で下描きをしていることだろう。水彩画の美というものは実には儚い、危うい、微妙なものだ。わずかな鉛筆線が台無しにしている。絵画は説明を抜きに、直に見る者の心と繋がるものだ。だから抽象画というものが存在しうる。

と書きながらも、実は水彩画に残る鉛筆線の美しさにも例外がある。ロダンの着彩クロッキーを思い出す。水彩画とは言わないのかもしれないが、それは美しいものだ。その他にも例外は多々あるだろう。スケッチの見事さというものもある。しかし、その例外を自分の絵の鉛筆線の弁解に使っていたのでは、水彩画に至ることは出来ない。デッサンは重要なことだ。別の紙に筆で直接描き始めればいい。水彩絵の具で白い紙に描きだすことは不安であろう。その不安もその人なのだ。描くという行為全体が大切なことなのだ。生きるという事に下描きが無いように、失敗を含めて絵なのだ。

 

 

 

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