貧困と中流意識

   

多くの日本人が中流と意識しているということだ。今の暮らしに満足という日本人が73%という内閣府のデーターがある。その背景にあるものを考えてみたい。日本発の大企業がグローバル化して、日本の国益とは違う動きを始めている。世界情勢は一国主義が顕著になり、深刻な対立が起こりそうな動きである。世界ではテロが絶えることなく続いている。お隣の北朝鮮は日本にいつでも核ミサイル攻撃ができる状態になった。日本人の暮らしは格差を広げている。人手不足が言われる中、深刻な労働環境の悪化。ブラック企業とワーキングプア―。多くの日本人が明日は我が身という不安を抱えながら、その思いを潜在化させて、自らを中流だと意識しようとしている。自分の周りにある貧困を、あるいは自らの貧困やあるいは顕著化している富裕層の存在に、目を向けようとはしていない。日本人の実態はどこにあるのだろうか。

アベノミクスなどという意味不明な経済の方向にいまだ希望を捨てきれないでいるのが今の日本なのか。日本自体のことは見えにくいとすれば、トランプアメリカと韓国の状況を考えて見たらどうだろうか。両国とも危うい綱渡りに見える。北朝鮮が今や標的になり、異端の狂気した国家と見られているが、アメリカも似たり寄ったりで変わらない。アメリカはトランプの叫び通り、世界一の軍事大国で、弱い国をいつでも踏みつぶせる国家だ。北朝鮮への先制攻撃は近づいている。そういう軍事大国が世界の警察をやめた。その理由は国内の貧困層の拡大である。世界一の経済大国がその豊かさに満足できず、あがいている。韓国では一部のグローバル企業に極端に重点を置いた。その結果国内が空洞化し、安定した暮らしが失われ始めている。行き過ぎた能力主義が不安定な社会を作ってしまった。農業の崩壊が地方経済の崩壊につながっているらしい。そして中国の一国主義によって、進出韓国企業への圧迫が始まっている。大国アメリカも、後追いの韓国も、危機を高めている。これは日本の近未来にも当てはまることではないだろうか。

中流意識と暮らしの実態とは別である。増加する生活保護や社会保障に対する批判が、日本社会には根強くある。生活保護を受けている人の暮らしと自らの暮らしが逆転現象が起きている場合もある。必死に働いて、やっと暮らしていて未来の展望が持てない状況が日本にはある。改善されるべき状況であるにもかかわらず、その抜け出せない状況を受け入れざる得ない気分の蔓延。広がり始める中流層の不安定化。日本人が中流意識をあえて持とうとしているかのようだ。それは貧困の民俗的記憶にあるのかもしれない。人間が抱えていた貧困の記憶は飢え死にする状態である。確かに現状の日本の貧困層は飢餓状態にまで追い込まれた状況ではない。回りからは貧困が見えない程度のものだ。問題は徐々に広がり始めている格差にある。格差とは収入だけでは見えないものだ。

子供の貧困を数値化しているものがある。ーー貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を試算して順番に並べたとき、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に届かない人の割合。子どもの貧困率は、18歳未満でこの貧困線を下回る人の割合を指す。ーーと新聞にあるが、一つの指標であるとは思うが、どうも貧困の実態をとらえ切れていない気がする。貧困率とは格差の存在を明らかにするものだろう。全体が高いレベルの国の貧困と、国自体が貧困に陥っている国では、この数値では意味がまったく違ってくる。そこでもう少し実態に即して貧困を探る必要があるといわれている。海水浴、学習塾、遊園地、デパートでの買い物などの機会の調査が必要という事らしい。さらにわからなくなった。私は子供の頃その何処にも行ったことがないからだ。今でも同じではないだろうか。昔は耕作地を持たないので、子供まで鎮仕事でしのいでいる家庭が貧困家庭だった。

どのような子供の機会が豊かさの指標なのかの意味が違う。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」懐かしい日本のふるさとでの機会は、完全に失われている。これこそを貧困な国だと私には思える。この感覚は指標には現れないが、幸福度の数値には必要な材料だろう。〇生き物を飼い、子供を産ませたことがあるか。〇自分で作ったものを食べたことがあるか。〇山や川で採ったものを食べたことがあるか。〇人の死をみとったことがあるか。こういう調査が必要なのではないか。私が思う豊かさとは、学習塾に行くようなことではない。人間らしく生きるという事が分からないと、消費社会における豊かさの指標に巻き込まれる。消費者としての豊かさではなく、生産者としての豊かさ。幸せな社会とは何かという事だ。子供が好きなことを見つけられる社会。子供が自由に好きなことを見つけられる社会。その好きなことを磨いて、仕事にできるか、少なくとも続けられる社会ではないだろうか。田んぼが好きな子供が、田んぼを出来る社会である。

学習塾に子供たちが夜中に通っている。果たして豊かな子供と考えていいのだろうか。夜中に、そこだけ明るくなった建物から子供たちがぞろぞろ出てくる。自転車に飛び乗って忽ちにいなくなった。子供は勉強に頑張っているのだろう。大したものだと思う。しかし、勉強しなければ社会から振り落とされるという、強迫観念にあるのではないかと、心配にもなる。そういう社会が受け入れられてしまっているが、いつまでもそれでいいのかという事がある。日本の子供たちの環境では、絵を描きたいというようなただただ好きな事を見つけている訳には行かない空気がないか。生活のできるという前提がついてしまうのではないか。今までは何時の時代もそうではあったが、これからはそれを取り払い、好きなことを突き詰めることが可能な社会を作らないといけないのではなかろうか。何ができないから貧困であるではなく。何ができるから豊かな社会だという尺度を考えるべきだろう。

明日の役には立たない事をやっている訳にはいかない社会が貧困な社会ではないか。明日、明後日には関係ないかもしれないが、80年という人生の豊かさでは役に立つことはさらに別にある。つまり、実益のないことの中にも豊かさにつながることはある。収入で貧困を考えてもあまり意味がない。相対的貧困よりも、絶対的貧困を考えた方が良いのだろう。食べるものが充分にないという状態が貧困である。アメリカでは貧困層の方が、太っているそうだ。ジャンクフードしか食べられない貧困。きちっとした食事ができているのか、という事を貧困の目安にしたらどうか。親が子供にきちっとした食事を与えられないというのも、一つの貧困の姿だ。収入はなくとも、自給生活ならば、豊かな暮らしだ。

自給的な豊かな暮らしをしている人が、社会で言われる収入的には貧困層であるという事がある。自給的に暮らしていると、収入がなくとも豊かという事がある。中流の暮らしを考える上では、江戸時代の日本人の暮らしにある安定性を考える必要がある。人間の幸せがどこにあるかだ。幸せ度と中流を相関としてとらえる必要がある。都会生活では収入の多寡が、暮らしの格差に直結する。収入によって暮らしている家が違う。食べているものも違う。ところが僻地の農村においては、収入がなくとも、大豪邸に暮らして、豊かな食生活という事がある。普通の食生活が、健康的で都会においては最高の食生活と言える自給していることもある。もし年金がいくらかでもあれば、豊かな暮らしであるかもしれない。しかし、所得的には貧困層という事になる。日本の社会の分析をする方法が、もう現実を反映していないのだろう。

 

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