絵を描くこと、農業をやること

   

石垣島 製作途中 中盤全紙

絵を描くことが一番生きているんだなあと思う。農作業をすることも生きることだ。この二つが少しの変りもないという事が、少しわかってきた。絵を描けば、絵という作品が作られる。農作業をすれば、農作物が生産される。いずれも自分の為のことだ。だから、私絵画になり、自給農業になったわけだ。養鶏業をやった。売られていた卵としては日本で一番優れた卵だった。2種類の発酵飼料。草むらでの放し飼い。自家系統の品種の養鶏。この3つだけなのだが、今でも誰もやっていない。良い卵を作りたいというところから、良い卵とは良く孵化する卵だという事に行き着いた。今稲作を突き詰めようとしているが、やはり一番のお米は、良い種籾であるお米ではないかと考えている。最高の種が、最高の食糧であるはずだ。絵でも同じではないか。良い絵を描きたいから始まり、自分にとって良い絵とは、見ることでは無く自分を生み出す絵なのではないか。それは絵を描くことそのことにあるという事に至った。

農作業をすることは、食糧生産の為だけかと言えば、そうでもない。蒔いた種が発芽する喜びは、発芽するという自然力から受ける喜びがある。この喜びを体験したいから農作業をするという事もある。いろいろ工夫し、様々な対応をしながら、自然にはぐくまれる作物。そして収穫に至る。収穫物を頂く。それが生きてゆくことになる。食べてしまえば消え去るのだが、それは自分という存在の生命を動かしている。食べ物は命の基本をなす、それを作る喜びが農作業にはある。絵を描くという事も、命の基本という意味で、同じなことではないだろうか。出来上がった絵は一体何なのだろうか。絵を描くという行為の意味するもの。描かれた絵はどういう意味が有るのか。絵という存在は、極めて不確かである。しかし、確実に目の前に創造物として存在する。不思議だと思う。

絵を描くという行為は、作物が芽生えると同じように、自分の意思によって何らかなのものが立現れるものだ。その無から立現れるものは、自分が純粋に生み出したものだ。そして又、消え去るものでもある。自問自答しながら、創造してゆく行為が絵を描くという事になる。何かが作り出されたと感じた時の喜びは、作物の芽が芽生えた時以上に大きな喜びがある。何もないところに、自分の行為によって何らかの意味あるものを作り出した喜びがある。それが、より純粋に自分というものの存在に触れあう事になる。浮かび上がる自分という人間存在、そこから出て来たものであれば、喜びは何とも深い。それが、通俗であったり、ただの描写であれば、何とも自分のつまらなさにぶち当たる。注文仕事のようなものであれば、この喜びは失われる。

こう考えると自分という人間の証明になるような、新たな創造物を作れないかというのが、絵画制作の目標になるのではないだろうか。いまだかつてないものを願う気持ちは、未知なる自分に出会うという事なのだろう。自分という人間を探索し、その思考や感性を創造する。これが絵を描くという事ではないか。作物を作るという事は自分の食糧を確保するということになる。そうしなければいきれないのが人間である。絵を描くという事は、自分という人間の生命を輝かすという事になるのだろう。命が続く限り、命の輝きを最高に保ちたいという事だ。そして自分の命が生まれ、生きて、死んでゆくという存在を何処までも探求したいという事になる。その羅針盤のようなものが絵を描くという事であり、出来上がった絵という事のようだ。食べ物を作るという事の喜びは、自分が生きるという事を自分が支えるという事だと思う。そして絵を描く喜びは、自分が生きているを確認するという事ではないか。生きているという事が、息をしているというのではなく、生命として輝くという事。命が新たなるものと出会えるという事。絵を作り出すという事には、結局何をどう考えようとも厳然と、描いた絵があるというところが良い。冒頭の絵が結局私なのだ。そこから進む以外にない。

 - 水彩画